2009-02-24

気配

母と話していて、
この概念がもはや、日本国民には通じないと思う結論になった。

母は田舎農家の生まれゆえ、
気配りがないと
器量のない娘という恥ずかしいレッテルを張られてしまう環境を
育ってきたために、そのまま僕の教育をしてきた。
だから、頭が悪いことより、気づかない行為をよく叱った。
ただ、その概念が今の日本にはもう通じない。

気配りをすることは、
それを受けたことに気づく配慮がある前提な社会でなくてはならないが、
最近の愚民はどうだ、
気配りを受けてさぞ当然、
逆に自分はしないのに、されないことを怒る始末。
これでは、気配りをするほうが損な社会に化している。

でも、だからといって僕は気配りは否定しない。
それどころか、いまだからこそこの能力を最大限に活用したい。
気配りということは、全体視、采配力そのもの。
+で考えれば、みんなのためという善意になるが、
-で捉えれば、どこが弱点になり、攻めればいいか
手に取るようにわかる。

どう使うがこっちの判断。
気配りは云わば、最古の情報戦そのものといえよう。

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