2013-10-31

国産

限りなく日本でしか通じない言葉になっている。
国産の定義は
・生産地
・生産者
・材料
が、日本国内であることを求めるが、
それを全て求めることに意味があるだろうか?

・狭小な土地
・すでに勤勉、器用ではなくなった日本人
・資源の乏しいなか選択肢の少ない材料

で作ったものが国産であり、必ずしもいいものとは言えなくなっている。

適材適所
TPPのような他国との密結合
が求められる今の世界情勢で
国産偏重主義はかえって、品質の悪いもの、国際摩擦を生み出す
温床になりかねないといえる。

2013-10-30

抜本

根本から対応をし直す。

抜本的な改革で成果をあげた場合
成果主義ではどうなるだろうか?
評価される?
いえいえ、否定強いてはなかったことにされるのが現代社会。

抜本的ということは
今までの成果否定になる。
そんなことを許してしまったら、
社会の秩序が保たれない、
成果が成果と認められなくるという論理が今の社会。

本質を見抜いて
それに対応したアクションをして、結果を出すことは
必ずしも今の社会では認められる成果ではない。
今の社会ではね。

2013-10-29

試用

ためしに使ってみること。
仮での実験的利用とされる。

企業において
ある製品について、試用を行い、それを採用するかどうかは結構自由だが、
人材だと、試用期間後に採用の自由を元に判断すると社会的に問題視される。
これの事実を問題視することができない今、とっても危ないと感じている。

自分たちの経験をもとに考えてみよう。
うまくいかない人と仲良くなることって簡単だっただろうか?
その人と一緒にいるだけで苦痛だったことは無いだろうか?
そういう環境があるから、いじめになったのではないだろうか?

試用期間で採用の自由が許されないから
パワハラ
セクハラ
とか騒ぎ、企業前提の統制、コミュニケーションがおかしくなる。
ある意味、採用の自由を認めないで問題の先送りが
このハラスメントにつながっていると悟る。
この事実を直視することができないことが
今の日本の大きな問題だと
僕は社会を俯瞰して感じてならない。

ダメな人間関係はいくらやってもダメなんだから、、

2013-10-28

加糖

日本人はアジア圏で
お茶が甘いことを批判する。

でも、それってある意味、日本人の島国根性、鎖国的思考の現れだ。
日本人はお茶をそのまま飲むが
コーヒー
紅茶
には砂糖を入れることが常識になっているが、
外国の人からしたら
コーヒー、紅茶、お茶、すべて同類の喫茶行為にすぎない。
それに砂糖を入れない特別なお茶があるほうがおかしいと思われるほうが多い。

その事実に対して、どうも日本人は閉鎖的に自分の思い込みを強調するし、
そういう声を聞かなかったことにしている。

加糖することひとつとっても
当たり前と思っていることが異常である可能性がある事実に目を背けない姿勢が
今後、、今でも重要と思うことがglobal 対応のひとつと自覚すべきだといえる。

2013-10-25

乱流

流体の流れ場の状態の一種。乱流でない流れ場は層流とされる。
日常生活では、乱気流なんて言葉のほうが耳にするかも知れないが、
身近なものは、
ホースから水を出すときに、そのまま持っていると層流、つまり一定の方向に出るが
少しでも振り出すと、とんでもない方向に動き出す様がまさにそれである。

乱流こそ、
自然ではないかと思う。
一定のルールが守られていれば、その法則に遵法的なるが、
少しでも乱れれば、手のつくしようがないことになる。
だから、

・どのくらいのブレで乱流になるのか
・乱流が起きた時、どのようになるのか

を現代社会はコンピュータによっていろいろと計算してきて、
その成果が試されてきている。

実はビッグデータ、、
つまるところ
このビジネストレンドの乱流がつかめることが出来れば
相当な精度とそれ相当の期待効果が得られるだろうと僕は思っているけどね。

2013-10-24

運搬

人間や物をある地点から他の地点へ運ぶことである。
運送
運輸
輸送
配送
という言葉とどう使い分ける?といことを意識しているだろうか?

似たような言葉を使い分けることは難しいというか
正解がないことが多い。
著名な辞書が幾つかあるが、その使い方について
それぞれの辞書において説明が異なり、
それが正解、
それは間違っている、
どっちでもいい
ということになりかねない。

とりわけこの運搬という言葉は、、、
いろいろな定義、解釈を見るに
どうも、古語的であり、そして客体的抽象的な用例が多いようだ。
「自分が運搬します」
より
「自分が運送します」
と使われることが今は主流だろうし、
その運搬作業によって、、という表現をして
あくまでも自分は関与していないときに使われる。

似たような言葉の正解は
自己、それぞれの読み聞きの感覚になっているのが実情。
~なんとなく耳障り
~なんとなく違和感
というレベルでその言葉が合わないとみなされるものであり、
結構、その感覚は個々人依存で
地域性、職業性、で異なり
その言葉の使われ方ひとつで、コミュニケーション的な疾患になったりすることがある。

似た言葉が多く存在することは
表現を豊かにするのではなく、互いを否定する根拠になるんだなあって
思えてならない。



2013-10-23

丼物

丼は井戸の井の字の真ん中に点で
どんぶりと読ませるかご存知だろうか?

この漢字、実は純粋な日本創作された和製語。
この文字より先、独特のフォルムのあの容器が存在した。
その容器を井戸に落とすと、水面に落ちるときに
どんぶりという音がしたから、
井戸に落とすという意味で、井の字で
読みは、どんぶり になったそうだ。

名称の発祥はいろいろとある。
近年の多くは、外来語ばかりになっている。
対して日本で作られる言葉
元来の言葉の略語が多い気がする。

この丼と言う言葉、
当時は、
「あの独特な茶碗に飯とおかずを一緒に入れてくれ」
「あれ?」
「ほら、井戸に落とすと、どんぶりっていうあれ」
「あーどんぶりね」
「そう、どんぶりで」
「じゃ、俺もどんぶりにすき焼き肉と米を」
「おれも、」
「俺も、牛肉をれたどんぶりで」
「あ、では、牛肉をどんで」
「じゃ、、牛をどんで」
「牛丼ください」

となったといえる。
もし丼物を正式名称で答えるとした。

牛丼は
独特のフォルムの井戸に落とすとどんぶりと音がする茶碗に
すき焼き肉をご飯の上に乗せた料理
となるだろう。

かつ丼もおなじように
すき焼きがポークカツレツになるようにだ。

丼という字は擬音から始まり、
略称のために、どんという響きだけになったというのは
日本人の言語文化の象徴のようなものと感じられる。

2013-10-22

自動

自動運転
エアコンの外出先からの起動

便利で安全になる代名詞になっている。

日本語では自動で
英語だとautomatic
しかし、automatic は自動というより自発、勝手に、という意味が強い。
そして、自動化に対して、英語圏では懐疑的になっている発言も多い。

自動車が自動運転となったら、自動車を運転する運転手の意思は?
その自動運転で起きた事故の責任は?
家電が自発的に行動するようになったら、住人の気分が尊重されないのでは?

欧米の執筆作品の多くに、機械に人間が支配されるものが多い。
それは、人工頭脳など、人間の尊厳に関わるところに機械が進化してきていることから
危機感を煽っているところにある。

しかし、そもそも人間の定義、何をもって自動とみなすか
古来、奴隷は人間ではなく、彼らの労働はある意味使い手の意思であった。
ある意味、自動認識で動く機械の扱いが奴隷であった。
その奴隷制度も今はなく、人間とされている。
近未来、機械も過去の奴隷を見習って、一人格を与えられることもなくはないと僕は思う。
自動、人は便利を求めて勝手に動くものを導くとそれに人は人格を見出してしまうのは
ある意味性ではないかと思うなあ。

2013-10-21

曖昧

曖昧であることの定義って出来るだろうか?
もしその定義ができた場合、曖昧という意味は使えないのでは?と
論理的矛盾に感じる。

曖昧なこと=多くの人が理解できないこと
とするしか無いと思うのだが
あえてその定義をしたがるどころか
自分こそ正しいという論調も有り、
社会全体として曖昧なのではと思ってならない。

2013-10-18

等分

等しい分量で分けること。
実は、平等以上に、等分という発想は現代において
気づかないところで否定されている。

’等しい’という概念
’分量’の基軸の定義
という根幹まで、人為、意図的なパワーゲームが
能力というレベルで行われているからだ。

自分が等しいと思うことは
はっきり言えば、その思うことで他人からすれば等しくない。
お前に等しいを決める権利はないという発想が起きるから。

分量についても、成果、必要性、選択権など
目盛りではないそれぞれの思いが主張されている。

等分を目指してきた社会制度、
それで人は進化、高度化されたと思われているが
それって実は大きく梶を切り間違えた方向性だったのでは
最近感じる。

自然の法則において、等分という概念がないから
人間が生み出したものであり、
それが自然と相容れないから
その反動が社会ストレスとして生まれているという考え方も
成り立っているだけに、、、

2013-10-17

成分

化合物や混合物などを構成している元素や純物質。
とりわけ、現代人は栄養成分について敏感になっている。
健康に良い成分が入っていることでそれを摂取するようにしている。

しかしだ、
現時点において健康にいいと言われているものが
本当に健康にいい成分といえるだろうか?
近年、健康にいいとされていた成分が入っているとされた食品の幾つかは
その成分は確かだが、他の成分が違うところで悪影響を与えていると報告が多い。
特定の一成分に注目して、全体成分に当たる成分バランスを考えずに
評価していることがこの問題を引き起こしている。

、、、おや?
これって食品成分の問題ではなく、
一部能力の変調主義で、人格問題なんで失敗している現代社会そのものと
同じではないか!?
成分を特化した考え方は、、全体バランスを見失うということがよく分かる。

2013-10-16

雨戸

案外、日本独特の文化物のような気がする。
西洋式、
アジア圏
において、雨戸というものが常設された住居は皆無に近い。

やはり、日本は台風、暴風雨が多いからこそ、
雨戸というものが必然だったのだろうか?

雨戸があることで、
外光や涼風を取り込みづらくなるので
最近の住居では強化ガラスによって、雨戸の設置をなくしている。

しかし、最近の猛暑、大台風などを考えると
外気の天候から住居を守る雨戸をもう一度見直す、、
ある意味、自然からのシェルターとみなしてはどうかと思ってしまう。

2013-10-15

定立

定立、、、テーゼのほうが巷の受けがいいかな?
とはいえ、定立、テーゼの意味は?
というと??ではないだろうか?

辞書で調べると、

政治運動の活動方針となる綱領。

あれ?
これマニュフェストと同じこと?

余計わかりづらい、、

英語で言えば、
Theory、、定説、定義、そういうやり方、に当たる言葉。
といえばわかるかな?

複数の外国語、、そして見知らぬ漢字熟語で
踊らされているかもしれないが、、、

これって、意味が分からないからこそ、かっこいい!!
現代文化の現れかな?

2013-10-11

差異

人の嗜好が顕著に現れるところだろう。

ある人にとっては
「こんなに違う」
と思っていても
「何が違うの?」
と言い出す人もいる。

それだけならいいがそこから人間の人間らしい行動が起きる。

「その違いがわからない奴はバカだ」
「よくわからない違いにこだわる奴って気持ち悪い」

となって、抗争が起きやすい。
僕からすれば、人間の抗争ってそういう嗜好の差異でしか起きないのでは?
って結論づけている。

戦争そのものが悪いの、
核兵器
生物兵器
を使用すると、国際的に批判される。
そもそも、戦争をしている事自体が問題で使っている兵器なんて
殺すことに関しては差異というレベルって感じるのにだ。

人間は差異と分別で自己を確立するものであり、
そこからいろいろな悪徳が生まれるということは
ある意味、僕の中では悟りレベルの真理なんだが、
周りは理解できないようだ。

2013-10-10

供給

需要と供給といわれる
市場、、欲しているところに、付加価値品を出すこと。
実際問題これは難しい。
タイミングと心情が推し量れないからだ。

相手が欲しいと思うタイミングで提供するには
相手が欲しいと思う前から、その提供準備をしておかないとならない。
そうでないと、間に合わない。
逆に、その準備が予想に反したまま提供をしだすと
市場や相手のことを考えていないと言われる始末。

提供を迅速、希望どおりに行うということは
それの提供に対して、事前準備できるだけの
多くの選択肢をもてる財的体力
イチかバチかにかけるバクチ的対応決断
が提供側に求められる。

欲することが悪徳とみなされ続けていた日本。
そんな国だからこそ、
その欲する欲望への対応がゴテゴテになることはある意味当然なのだが、
市場やマスコミは提供側に辛辣な発言を発するのは
なんか身をわきまえていない気がしてならないけどね。

2013-10-09

教本

マニュアルのこと。

ある成功企業は
マニュアルどおりに徹底させたオペレーションで品質を維持している。
とまた、ある企業は
マニュアルに頼らない、現場の従業員判断に任せて、今に至る。
と言い出す。

マニュアルは必要か否か?

答えは、ナンセンスというか正解はない。
要は経営方針と従業員の意識であり、マニュアルの要否はどうでもいいことである。

マニュアルが必要とされるとしても
接客、業務遂行中にマニュアルを見続けていたら
あるべき業務はできないので、
マニュアルの内容を頭の中に覚えることが必要になる。

マニュアルに頼らないとしたとしても
自分の判断の根拠は、
自分の先輩などから得た対処方法
今まで経験してきた前例
と自分の頭のなかのマニュアル想定に中から選び出しているのである。

マニュアルが紙、物体として存在するかどうかの問題であり、
マニュアルの中身はどんな従業員の頭のなかにあるといえる。

法学的に言えば
不文法
成文法
と法は存在するが、それがどう表されているかは性質によって異なるとされるのと同じある。

もっとも、
そのマニュアルの中身が
そのビジネスにおいて適正か、そして時代とともに更新されているかが
経営方針、従業員の意識、、、つまり企業価値につながるので
中身があればいいというものではないけどね。

2013-10-08

水面

’すいめん’と読めるし、’みなも’とも読める。
水と空気との境界面であり、
人が水と可視的に確認できる点でもある。

しかしだ。
’すいめん’、’みなも’と人によって、音として認識が異なったり
波やゆらぎで、同じ水でも見たタイミングで水面の状態は異なって見えたりする。

道教では、そんな変幻自在、流動性を重んじるが
現代社会の画一的、定義主義においては
水面の固定できない形状は他社との認識共有を妨げるいい例となっている。

ある意味、人間のコミュニケーションそのものが水面のようで、
あの人はこういう人って認識していると
それとは異なる付き合い方が幾通りもあるからこそ
人は悩まざるおえない、それがまた第三者も悩ますことにもなる。

水は身近にあって、そして捉えづらいものと改めて感じている。


2013-10-07

勘違

間違って思い込むこと、
ある意味に、個人責任で、自分が責めを負うはずである。
しかし、この世界は愚かなことが起きている。

勘違いで失敗したことを、
自分に勘違いさせた紛らわしいことが問題として
裁判や運動を起こす輩が多い。

~勘違いさせるようなことをしている方が悪い
~みんな勘違いしているのだから、自分が正しい

という何ともおかしい論理でだ。

僕の知っている父の知り合いはそれで命を断った。
自分は昔から創業している会社をやってきたのに
新興企業が名前が類似していたそうだ。
その企業と間違えて発注した企業が
なんくせつけて、終いには損害賠償で訴えられたそうだ。

勘違いした側の過失だといえるのに、結局強引な示談なうえ、
与信、資金繰りで、、これ以上は書くまい。

勘違い、それは勝手に間違いを起こして
そして、他人を不幸にする思考。
それにより、他人から不利益をもたらせられることもあるし、
そして、自分もそうしかねないことを肝に命じることをしておかないならない。

2013-10-04

硝子

日本人は面白い。

窓ガラス
グラス
サングラス

は別のものと思っているが
すべて、硝子そのものでしかない。

ガラスをグラスと言っているが、
グラスはガラスコップそのものでしかない。

使っている日本人の多くが
同じものという認識はないだろう。
それで、日常生活に支障が出るわけでもないからである。
しかし、それは日本人という枠であればの前提であり、
その日常生活を普通と思って海外に行くと
ウェイターに
「グラスをちょうだい」
って言ったつもりが、サングラスを持ってこられて
怒り出すバカな日本人を作り出す結果になる。

海外に行く時にそこに注意して行動するようにいったところで
日頃から気をつけていない人間にそんないろいろなことが出来るわけがない。
これからは
今の日常をかけていくか
それとも、海外に行かないようにするか
を考える時代と割り切ること段階ではないだろうか?

2013-10-03

謎解

洋書のミステリーを読んでいる。
時間があり、見識を広める意味で、、
そして思った。
日本で、洋書のミステリーが流行らないわけだということが。

多くの書に触れたが、
結構、著者の思い込み、常識で書かれていて
日本人には受け入れがたい。

・日曜日に教会にいかないことがヒント
・兵役中にそんなことをするわけがない

という記述をされると、
日本人としては、それが当たり前と言われても
はぁ~
となるし、それが謎解きといわれても納得性がない。

これは日本の鉄道ミステリーが
ダイヤの概念が無いに等しい
外国人に理解できないのと同じなのかもしれない。

謎解きというものが
かなり、地域性、価値観に依存することがよくわかった。
もっとも、和書、洋書ともにいろいろと読んだ結果だがね。

2013-10-02

美醜

哲学書の中では、
美しいものは不変であると記述されている。

が、僕はそれは違うと思っている。
美の定義は時代というか、その人々の集まりでいろいろと違うし、変わるものといえる。
例えば、
首長族の美は首の長さが女性の美であるが、
今の日本では受け入れられるものだろうか?
そんな今の日本も、平安時代の美の定義は黒髪の長髪の女性が基準だったことを
受け入れていない。

遠隔地、古い時代との比較だと
なんか的を得ていないと思わるかもしれない。
しかし、そんなことでなくても身近なところでもそれは感じる。
テレビで数十年前のドラマを再放送すれば
その当時の最高の美で作られているが、
・仕草
・衣装
・持ち物
・技術
・身だしなみ
どれも、今時代どれかを用いれば、ださい、醜いという誹りを受けるだろう。

ほんの数年前の美でさえ、直ぐに否定どころか醜い方に認識されるのである。
まーそれも逆で、もし過去の存在が今の時代のファッションなどを見たら
最低、、って言うかもしれない。

つまり、哲学でいう美の不変は間違いである。
バカな哲学者は、
そんなの美ではないと美はもっと根本的な、、、
っていうが、過去の人の思い込みに固執し、しかも世間と違うことをいうことほど
哲学の精神の美と真っ向から逆らう愚行で、全然美しくない。

2013-10-01

素人

その事に経験が浅く、未熟な人
その道で必要な技能や知識をもっていない人
だそうだが、、
結局は、個々人の思いあがりでしかない。

全然ダメな人でも、
俺が基準と言い出す人もいれば、
すごく完成されている人でも
所詮自分は素人ですからと言い出す始末。

情報が多く、事前調査である程度わかる状態の昨今で
どの段階を素人と言うのだろうか?
強いては、玄人と言い張っている人も基礎がなっていないなら
素人扱いしても問題ないのではないのか?

世の中の基準が多様化で見えなくなっている一つとして
この素人の認識がいい例として挙げられるといえる。