ある問題について検討し、
その是非や適否などについて結論を出すこと。
スポーツなどで、一定の規則に従い判定すること。
とはいえ、審判する根拠という物自体が僕からすれば偏っていると思っている。
それこそ、審判されるべきものといえる。
審判されるものは事前に決まっている。それに照らし合わせて審判される。
そんなことあり得ない。
なぜなら、審判されるものは事前に決まっていない事案だから
審判される概念が出てきているわけである。
決まっているものをわざわざ争うことはない。
そういう前提であるからこそ、審判の意味がでてくる。
だからこそ、問題でもある。
事前に決まっていることは、ただの思い込みではないのか?
審判する判断はただの思い込みの押しつけではないのか?
このような根本的な問題を感じていたら
規律、法治は成り立たないだろう、、、
しかし、規律、法治という概念する正しいのか?
審判そのものを自分で審判することこそ、
混沌という概念であり、審判の上位概念がその審判の根拠たる規律の真逆、混沌ということは
哲学すぎて、あまり語っても意味がないかもしれないがね。
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