全部という表現、実はかなり難しい。
どこまでという範囲を考えた時点で、全部とはいえないだろう。
現代社会、
なんでも欲する輩多く、
なんでも全部と言い出す。
全部という表現にはスコープ、前提条件という重要な判断基準を見失っていて
ビジネスリスクの塊でしか無い。
なんでも欲しがる、知りたがる輩は
強欲ゆえに結果を出せないというのは
自明の理なので、相手をしたくないと言えるがね。
2014-03-11
開放
立場が異なると同じ行動にでも表現が異なる。
支配されていた側が
支配から抜け出すために行う活動は開放活動
しかし、
支配している側からすれば、それは反乱活動
互いに自分たちの利権を取戻すために行う気持ちでそう表している。
最近の傾向では、
開放のほうが正当性があるという感覚を持っている人がいるが
それって、反抗期を迎えた未成熟な者達が暴れていることのほうが多く、
開放された後、待っているのは無秩序な状況で
終いには、自分たちを保護しない世界が悪いなんて言い出す始末。
最近の途上国の革命後の今、
そして、学歴社会、正規雇用から開放された今の日本の労働者の有り様も
僕からすれば同視できる開放の結果といえる。
支配されていた側が
支配から抜け出すために行う活動は開放活動
しかし、
支配している側からすれば、それは反乱活動
互いに自分たちの利権を取戻すために行う気持ちでそう表している。
最近の傾向では、
開放のほうが正当性があるという感覚を持っている人がいるが
それって、反抗期を迎えた未成熟な者達が暴れていることのほうが多く、
開放された後、待っているのは無秩序な状況で
終いには、自分たちを保護しない世界が悪いなんて言い出す始末。
最近の途上国の革命後の今、
そして、学歴社会、正規雇用から開放された今の日本の労働者の有り様も
僕からすれば同視できる開放の結果といえる。
2014-03-10
2014-03-07
関連
ある事柄と他の事柄との間につながりがあることだが、
案外、関連については主観的、感覚的に判断していることが多い。
だから、自分の考える関連については
場合によっては、他人から
~関連があるとは思えない
~関連があるはずなのに、なぜそこを見ていない
という指摘を受けることがある。
世の中に多くの事やモノがあふれているため、
すべてが作用、、関連する可能性があるのだが、
その中から、特定の視点に焦点を合わせて
不要な関連性のキヅナをあえて切ることも必要と言われる。
とはいえ、
その不要という判断もまた論理的というな独善的な判断基準であり、
検討した時点で、関連有りと僕は思うのだがね。
物事事象を分けることの難しさは
真剣に向き合うと実に難しいのだから。
案外、関連については主観的、感覚的に判断していることが多い。
だから、自分の考える関連については
場合によっては、他人から
~関連があるとは思えない
~関連があるはずなのに、なぜそこを見ていない
という指摘を受けることがある。
世の中に多くの事やモノがあふれているため、
すべてが作用、、関連する可能性があるのだが、
その中から、特定の視点に焦点を合わせて
不要な関連性のキヅナをあえて切ることも必要と言われる。
とはいえ、
その不要という判断もまた論理的というな独善的な判断基準であり、
検討した時点で、関連有りと僕は思うのだがね。
物事事象を分けることの難しさは
真剣に向き合うと実に難しいのだから。
2014-03-06
2014-03-05
献身
自分の利益を顧みないで、他者または物事のために自己の力を尽すこと
人間はこの献身を求めるくせに
経済活動を生活の中心においている。
現代人はあたり前のようにとらえているが、
どう見ても矛盾だろう。
対価をもらう前提で行動するのが経済なのだから。
そして、
献身はさせるものであると認識している輩も多い。
席を譲ってもらって当然、早く自分のために行使しろ、人間どもと思う輩
自分のために他人がどうなろうか気にしない、そうなることが能力主義なのだから
こういうことが普通になっている社会において、、
見直すべきではないか、献身の価値観を!
もっと地球規模でみれば
自然回帰の思考でいろいろと取り組まれている環境問題。
自然の大きな流れ、自然の摂理でいえば
強いものが弱いものに食われることが摂理。
やられることが当然なはずなのに、、、
その摂理に逆らう、人間の人道的献身って
根本的に自然破壊的な発想なのかもしれないって考えることは
もはや正論だと僕は確信めいて感じている。
すでに人道というレベルは社会契約上の一手段でしかないということを。
人間はこの献身を求めるくせに
経済活動を生活の中心においている。
現代人はあたり前のようにとらえているが、
どう見ても矛盾だろう。
対価をもらう前提で行動するのが経済なのだから。
そして、
献身はさせるものであると認識している輩も多い。
席を譲ってもらって当然、早く自分のために行使しろ、人間どもと思う輩
自分のために他人がどうなろうか気にしない、そうなることが能力主義なのだから
こういうことが普通になっている社会において、、
見直すべきではないか、献身の価値観を!
もっと地球規模でみれば
自然回帰の思考でいろいろと取り組まれている環境問題。
自然の大きな流れ、自然の摂理でいえば
強いものが弱いものに食われることが摂理。
やられることが当然なはずなのに、、、
その摂理に逆らう、人間の人道的献身って
根本的に自然破壊的な発想なのかもしれないって考えることは
もはや正論だと僕は確信めいて感じている。
すでに人道というレベルは社会契約上の一手段でしかないということを。
2014-03-04
気変
気が変わる。
周りの人間からすると、先までの感情と異なる感情を示していると
捉えられることになる。
しかし、当人は自分なりの何らかのルールに基づき
感情表現しているわけで、なんら変わっていることはないのである。
対人関係において、この点が争点になりやすい。
気変わりを起こした場合、それをどう判断するかは
力関係、結局従うか、従わせるか!しかない。
「自分は気変わりをしていない、君らが不快なことを言うな!」
もあれば
「勝手に気変わりを起こして、その分の責任をとってもらう」
ということもある。
気変わりを起こすと、案外社会的に問題を起こす事が多い。
だから、気変わりを起こしたとしても、それをそのまま表現せず
だんだんそうなってきている過程を周りに示しておくことも必要だと強く思う。
周りの人間からすると、先までの感情と異なる感情を示していると
捉えられることになる。
しかし、当人は自分なりの何らかのルールに基づき
感情表現しているわけで、なんら変わっていることはないのである。
対人関係において、この点が争点になりやすい。
気変わりを起こした場合、それをどう判断するかは
力関係、結局従うか、従わせるか!しかない。
「自分は気変わりをしていない、君らが不快なことを言うな!」
もあれば
「勝手に気変わりを起こして、その分の責任をとってもらう」
ということもある。
気変わりを起こすと、案外社会的に問題を起こす事が多い。
だから、気変わりを起こしたとしても、それをそのまま表現せず
だんだんそうなってきている過程を周りに示しておくことも必要だと強く思う。
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