オリンピックには歴史があるというが、
神瞰からすれば、もうオリンピックはオリンピックではない。
そもそも、古代オリンピックはただの神事でしかない。
それをクーベルタン卿が近代オリンピックというして国際祭典に変え、
そして、ロサンゼルスオリンピックからは経済イベントとなっている。
そもそものオリンピックであれば
ゼウス礼賛なのだから、女人禁制の神事であり
オリンピック精神を口にするなら、男女平等なんてありえない。
また近代オリンピック、クーベルタン卿の言葉で言えば
「勝つことではなく参加することにこそ意義がある」
というが、政治的そして科学許容の基準が恣意的で参加させないことを生み出している。
薬物はいけないが、シューズなどの道具はいくらでも発展させるが
それでも欧米人がつまらないと思い出すと規制させたりと
参加できるかは一握りの恣意でしかないことになっている。
そして今、経済イベントになってだけに
選手、観客の参加より、経済的損失だけでいろいろと判断される。
たぶん、無観客かつ出場棄権者が多数いても実施されるだろう。
クーベルタン卿の言葉をもじれば
「参加することではなく、開催したかどうかに意義がある」
になっている。
そもそも、頭脳はAI,作業はロボットになっている現代社会。
ただの人間という種として微々たる身体的違いで歓喜する感覚が
神瞰できる僕としてはすでにバカらしい行為をいつまで続けるのか?
0 件のコメント:
コメントを投稿