2012-01-12

情状

きつい表現をしてしまうと、
情状とは、違法容認であり、これを認めることはあってはならない。

組織気運、民意がどうであれ、情状を容認すると
秩序が崩壊するといえる。

冷たいという人が多いと思うが、それが誤った考えである例を挙げよう。

ある人が盗みをした。
その人はとてもまじめに生活をしていたが
貧乏であったため、病気の母に高価な薬を買えなかった。
母のためにどうしてもその薬が必要で、盗んでしまった。
この裁きで、裁判の執政官が情状酌量をしてしまうと、
・自分はもっと貧乏だから、盗んでも同じように許されるべきだ。
・そもそも、薬が高いから悪い、それを全部無料にしろ
という民意が騒ぎ始める。

盗んだ人の行いに情状すると
・前例を自己解釈につかう輩
・他人の財産権、市場論理を無視する愚民
が現れ、今まで統制を取っていた秩序が崩壊する。
せっかく、努力してお金をためてきたのに
貧乏な奴らから盗まれることが容認されたり、
原価がかかってその値段になっている商品価値を
不当に下げて、儲かるべき利益が全くなくなるということもある。

情状は
誰かを酌量するかわり、誰かを不幸にするという諸刃の刃であり、
その不幸が、既存の秩序を乱すことになる。

現代社会はマスコミや民意が横暴的に意見をいうが、
道徳、倫理、秩序を維持するのならば、
情状を一切なくした決断をすべきあり、
それが、結果的に多くの人々のためになるということを
強制的に理解させることが極めて重要といえる。

情状が多いということは、
無秩序、賄賂の可能性もあるという不正な状態である認識を
現代人は強くもつべきだと思う。

そもそも、人を裁く法律は選挙、立法という、歴史的な民意の結晶であり
その法律に対して、民意で情状を強く表明しているのだから、
そもそも民意の意味はないという事実を理解しているだろうか?

2012-01-11

祝辞

祝辞という時は
祝う
辞める
という漢字の熟語であり、
なんか矛盾しているように見えられる。

しかし、そもそも、
辞という文字の意味の認識が
一般的にことなるといえる。

辞という文字の本来の意味は
’宣言’という意味である。
言霊をもって神に宣誓するという意味合いが強い。

祝辞とは
祝いの言葉を神に誓って言わせてもらう
という意味に訳せるだろう。

ではなぜ、辞めるなのか、、、
答えは、日本の不文表現にあり、
「それを言ってはおしまいよ!」
「そこまで言うな」
というように、言わずもがなの最終宣言にあたるものが、
ことを終わらせる宣言、、辞任、辞職、である。
任命されたことについて宣言をさせてもうらう。
職について、語らせてももらう
ということは、すでにその職位にあらずという意味であり、
終わったという意味で辞という意味がある。

主語が弱い日本語だからこそ、
主語に当たる接頭がつく場合
祝辞
答辞
送辞
という意味では、宣言の意味だが
主語にあたる接頭がなく接尾がある場合
辞任
辞職
辞表
は、言わずもがな、終わるという意味になるといえる。

日本語の難しさ、考えると本当に複雑だ。

2012-01-10

方言

お国ことば、
多くの場合、恥じらいの意味でつかわれていたりする。

遊郭の郭言葉(くるわことば)、
「ありんす」等は
地方の田舎娘であることを隠し、
その遊女たちの地位を
お里の生まれで商品価値を
下げないとために、生み出された文化である。

方言は特定の人にしか、コミュニケーションをとれない言葉であり、
恥じらいとは、
自らの意思が相手にうまく伝わらないときに感情である。

方言のために、自らの発言を恥じる文化が日本である。
それゆえ、背中で語るという、言葉を超えた表現を美徳に感じさせる文化に昇華したと思いえる。

県民性に近い方言でこれであるから
日本語というもの自体が、一地方言語である国際社会になっている現代、
日本人が英語などの外国語を覚える行為より
背中で語る、、仕事で結果を出すということに注力させるほうがいいのでは
国民気質の観点から感じてしまう。

僕らの仕事は、口語、専門用語、そして、マシン語を使い分ける必要があるのだが、
結果的に、求められるのは、言葉ではなく
得られる結果ということは、このビジネスでなくても同じと思ってならない。

2012-01-06

歩行

歩く。
二足歩行という言葉があるように、
人間に持ちいらることの多い熟語だ。

歩行行為を行っているとき
みなさんはどう考えているか?
??
ただ歩いているだけ、と答えてしまうと
僕としてはもったいないと言葉を返したくなる。
歩行時というものは、
足を交互に動かす単純運動かつ
血の巡りを良くなっている状態でもある。
そして、多く場合、歩行時はマイペース、一人の時間といえる。

この条件は物事を考えるに適した時間といえる。
その時間をつかって、物事を考えてみては?といいたくなる。

僕のこの発想は独特のものというわけではなく
日本の哲学者、西田幾太郎の思索の小径 哲学の道 とあるように
歩くこと=考えること とつながっている。

歩いているとき、案外、大きな問題のヒントがえられるかも?

2012-01-05

謙虚

控え目で、つつましいことをさすが、
国際化社会において、
謙虚である日本の美徳はあまり通じない。

自分の功績を自ら立証せずに
あわよくば、人に褒めてほしいとみなされることになる。
??
っと思うかもしれないが、
文化が違えば、謙虚は謙虚ではなく、あつかましい態度と映ることも理解しなくてはならない。

謙虚な姿勢というものの本質、
それを示す人をわきまえて、
自己表現する時代になっている。

自己主張する人間と
自らの功績を誇示せず、誰かにその実績を褒めてもらうのを待つ人間と
どちら、好ましいかは日本人の視点ではなく、
その人の育った文化を理解しているかにも依存することを忘れずに。

2012-01-04

松明

きわめて無茶な読みをあてる。
松を先に書きながら、読みは後ろで、まつ として
たいまつ
と読ませる。

日本の漢字の読みは難しすぎ
小鳥遊でタカナシ
一でニノマエ
という名字はとても難しい。

人名を正しく表せないということは失礼にあたるのは国際的に共通認識だが、
このように漢字の読みが複雑では、到底失礼のレベルとは言えないだろう。

漢字文化を肯定するとしても
これはどう考えても他の言語圏には受け入れられないだろうな。
英語を必須とするより、
母国語である日本語を精査する活動のほうがいいのでは、
結局、これらの難しさや汎用性のなさが
カタカナ英語の乱用を招いているのでは?って思ってならない。

ITの仕事に携わっていると
多くがカタカナ表記になりかねない、
それを日本の語法かつ漢字表記と合わせて表すのは本当に難しい。

図示する書き物が説明に必須になっているのだが、
あれ、、図示することから、転じて象形文字たる漢字ができたのに
その漢字がまた図示を呼び出しているこの時代はって感じる。

2012-01-03

祝祭

祝日、祭日が公休になって久しい現代社会。
しかし、欧米の祭日と異なり、
その祝祭が仕事を休んででも行わなくてはならないという意味ではない。
ワーカフォリックたる日本人のゆえんに感じてしまう。

欧米の祝祭日は
仕事<行事
という意味があり、仕事をせずに国民全員で祝い事の祭事を行うために
仕事をしないように国家が定めている。
だから、国際案件になると、相手国の祝祭日、もしくは休暇期間に
日本基準で仕事を依頼すると、とんでもなく反感と
強いては雇い主であるこちらをバカ扱いまでする文化である。

対して、日本の場合は
基本的には
仕事>行事
であり、労働基準法の法源の意味合いのほうが強いといえる。
休みを国家的に与え、その日の稼働は休日出勤扱いに処するという意味で。

根本的に、行事への取り組みがない日本において、
祝祭日を強制するのは根源的には無意味ではないのかなあって感じる。
より効率的に考えれば、すべての休日を個人、組織依存にすることが
日本人のためになるいえる。

現在の日本国の規制では難しいが
少なくても弊社においては、
個々の休日感、祝祭感を大切にしたいと経営したい。

祝祭はここにおいて違う社会になっている。
家族の誕生日、参観日、みんなで行楽
これらがそれぞれの祝祭であり、それを間接的に祝い、支援することが
経営者としてできる仕事のひとつと心得ているからだ。