2011-01-21

自我

環境問題っていかにも
超人間的、自然的な観点で正しいことを行っているように感じる。
しかし、環境問題って本当に必要だろうか?

僕がよく口にするのだが

環境問題であるの真ん中に一本筋を通すとわがままを通すだけなのである。

エコが繰り返されると、、エコ” エコ”  エゴになる。

エコ、エコって言っているが
それは言っている側の論理であって、
それが本当に環境に合っているのだろうか?と思えてならない。

地球規模という表現だが、
未来の地球のために
今の多くの貧困層を抑圧することが
本当にエコなんだろうか?
つい最近まで、自分たちがその活動を行い
利益を搾取し続けた側が
エコ、エコって騒ぎててて、これから利益を上げようとしている人たちを迫害、抑制することが
本当にエコなのだろうか?

どう考えても、強者のエゴである。

地球規模っていうけど、
未来の地球を語るほど、
人間ってこれから繁栄できるとは僕は思っていない。
今のあるがまま、その結果滅びるのも人間として
自業自得でいいのでは?って思えてならないのだが、、、

2011-01-20

虫歯

親の愛情が少ない子供ほど虫歯にならないそうだ。

可愛くないと思うから、親が甘いものを与えない
親の愛への憎悪から噛締める行為が歯茎を強くする

なんて心情レベルで思ってしまうが、
実際は、科学的根拠があり、

生まれたての子供の口内は無菌状態。
飲食することで、その口内細菌が決まる。
親が咀嚼したものを子供に口移しするときに
親の口内細菌であるミュータンス菌が移り
虫歯の可能性が発生するということ。

親の愛が薄くても
成長してから他人が飲食したものをもらうと感染しないのか?
って思われるが、聞くところによると
口内細菌の生まれてからある程度すると
菌のすみわけができて、新たな菌がそこで繁殖できるエリアがなくなるそうだ。
だから、成長してから虫歯菌であるミュータンス菌が移ることはないとの見解だった。

最近わかったことらしいのだが、
この事実からすると、
子供時代に親と一緒に会食することや
大きくなって一生懸命は歯を磨いて虫歯予防は
親の愛の結果と考えると、必ずしも子供のためになっていない親の愛と思える。

これも悲しいかな。
日本人が米食文化ゆえに
日本人の口内がミュータンス菌の温床になっているからである。
アフリカの原住民の皆さんは虫歯という概念も無かったりするのだから。

虫歯というものを考えると
親の愛
米食
日本人
というところに行き着くことは実に面白い。

2011-01-19

哲学

大学受験において、
マニアックな、政治経済を選択したために
当時のセンター試験では、
政治経済だけなく倫理も学ばなくてはならなかった。
しかし、
高校の履修が政治経済 or 倫理 という
なぜか二者択一という
教育制度の破綻に苛まれてしまい、
独学で倫理を学んだ次第である。

しかし、皮肉なことに、
現時点での文章更新の
源泉はこの倫理の哲学の知識であり、
未だに役に立っていることになるとは
思いもよらなかった。

哲学というと崇高なものと思うが
僕はそう感じなかった。
小学校1年のときに
父から
「1たす1がなぜ2になるか、それを説明してみろ!」
という大きな命題をずっと考えさせられてきたからかもしれない。

物事、その心理、背理を常に意識して考えることは
僕にとっては日常茶飯事であり、
いつもの何かを考えている。

そう考え続けることが
ある意味ソフィア、哲学なのだろう。

2011-01-18

割引

巷で広がっている
XX% OFF
XX% ポイント付与
という割引販売方法。

事業的、会計処理的にすでに既成事実とみなされてきている。
ただし、このマインドが当たり前になっていることが
この先の商取引において問題になると思えてならない。

当たり前ゆえに、、
表示価格どおり販売することがある意味
社会悪になっている。

「定価どおり売るなんて、顧客志向ではない売り方だ!」

なんて平気で庶民は口にするだろう。
しかし、ならば定価って何のためにあるの?
割引率を求める基準値ならば
あえて、高価に設定しておいて
その割引率の高さを売りにすればいいのではないか?
と思うし、その定価の存在すらなくせばいいのでは?

定価販売については、景品表示法で
定価概念については、オープンプライスマーケティングで
定価の概念について検討はされているだが、
それは高次元、いわば一般消費者の視線とはほど遠い。

割引率の高さで勝負する市場は
供給側の体力勝負により寡占化を導き
市場に関わる消費者側を無知にする。
数字に踊らされ続けるからだ。

割引については
その割引根拠を説明することを義務付けることをしないと
粗悪品によるクレームが増えるというより、
購買行為自身がその割引率が購買基準という
市場縮小を誘引させることになってしまう。

割引をするということは
消費者のためという発想を間違っている。

本来定価で販売させてもらうことが
正しい商取引なのだが、
品物に傷がある、仕入先側で過剰にあまり処分したい
という、消費者側に無理して買っていただくために
値を下げて販売させてもらうこと

という認識になるべきだと考える。

2011-01-17

信頼

現代社会、、、
非戦闘状態、個人能力主義、ITの台頭において
信頼という意味は有名無実なものになっているのだが
多くの人間はその事実を認識することも認めることもできないだろう。

信頼は交友、好意とは同義に扱うことはできない。
信頼の前提条件として、
自らの存在意義、理由と
信頼する相手の存在意義、信頼たる根拠が必要である。

自らの存在を認めてもらい
相手の信頼根拠が自らの存在に不可欠な要因があり、
相手に委ねることが信頼である。

だから、信頼関係は補填的、対峙的な関係でなくてはならない。
同じ行為はできない、
相手の行為に自らを委ねる覚悟がいる。

戦時中だとその信頼で自らの作戦遂行をすることになる。
一般人が読むことが少ない、隊長手引き(captain note)にも
信頼=trustの定義に、そう言及されている。
自分の背中、もしくは銃撃の中の援護射撃には
その生命を守ってくれる関係がないとならない。
本当に必死の世界である。

しかし、現代社会において
とりわけの個人能力主義においては
信頼という言葉が逆に相手を不快にさせる。

仕事を丸投げしておいて
「信頼しているから、全部やっておけ!」

自分としては能力を証明するために
必死で行った行為をにべもなく、ITの力等で
すべて再チェック、上書きしてしまう。

頼る側、頼られた側としての思いはどこになるだろうか?

2011-01-14

予測

期の変わりめになると
・今年のトレンド予測
・この夏、はやるものはズバリ
という言葉がマスメディアにならぶ。

どう考えて、
予測という言葉を使った詐欺ではないかって思う。

はっきり言おう、
個々で挙げられた予測は決して流行らないと言い切れる。
なぜなら、そのいくつかが流行ろうとすると
それを特集したメディアがよりフォーカスするのに対して
他のメディアが必ず、その流行りは偽物という記事にして
鎮静化を図るという、よくできた報道の自由があるからだ。

今社会に蔓延している予測は
ほぼ恣意的、商業的な匂いのするものであり、
傾向分析に基づいているものではない。

人間は噂、風説、希望的観測という曖昧な情報で
行動できる動物であり、予測という言葉はとても行動根拠になりやすい。

しかしその分、
その予測が予測の域から確信になるにつれて
あきはじめたり、批判、否定するのもまた人間の特徴である。

だからあえて、みてみたい。
期の変わりめにあえて、
前回の予測は、こういう理由で外しました!
というメディアの特集を。

配信側は、
「読者はそんなことに興味がない!」
って言い張るだろうけど、
読み手側は
他人を批判、否定するところに愉しみを見出すものだから
かなり、読者志向の発想だと思うがね。

2011-01-13

交渉

交渉とはなんだろうか?
話し合いで本当に結論がでるのだろうか?

自分が関わっていない現代人の行っている交渉がすべて
小田原評定に見えてならない。

交渉をする時点で交渉ごとの結論を準備していない交渉は
行う価値が無いのではないか?
つまり、交渉はいわば儀式でしかないはずだと考えている。

話し合って決める。
多くの成功交渉は
交渉前に会議の進行係が事前活動で結論を導いているものである。
その事前活動が
・武力的
・金銭的
・伝統的
等のいわば力の行為であるときが多い。
いや、そのパワーゲームこそ交渉という行為の本質である。

主義主張を交渉の場で論じるという行為は
一見、正しく、清いイメージがあるが、
それは、場を乱し、混沌を導く愚の行為であることに
庶民はいつ理解できるのだろうか?