言葉としては
温かい床
となんともやさしいニュアンスに感じるが
温床という言葉が使われるのはだいたい、悪、不義の接頭語だといえる。
意味合いからして、
最適な環境下では、どんなものでもぬくぬくと萌芽、成長をしてしまう。
その成長に監視する目が届かなかったのではないか
ということを匂わせている。
こういう発想だからこそ、逆説的に考えることもできて、
育ちやすい環境にいるから、よくない成長をしてしまう。
逆に逆境のほうが、求められるカタチになるのではないか?
現代社会のよりよい暮らし。
それはある意味、怠惰の温床であり、
もっと困難な生活のほうがいいのでは?
それもそうだろう。
失われた10年
ゆとり教育の弊害
は好景気という温床で多くの人々が
考えること、行動すること、決めることを
怠った結果となったと思える。
逆に考えれば、この不況という結果が
新たなカタチを導いてくれると覗えるし
僕も弊社もいい経験をしてきたからこそ、これからの攻勢に転じられると思えてならない。
2011-01-11
懸命
命を懸けるという言葉は
平和な現時点ではあまり使わないし、、、
一生懸命という言葉はもともと封建武家社会の
一所懸命から転換されてきた。
ご恩と奉公の封建で手に入れた土地を
命を懸けて守るという発想。
優先順位は、土地 > 自分の生命 であり、
仮に自分が亡くなっても、
その土地があるから、子孫がそれを守り繁栄させてくれる
その礎に自分はなれるという思想である。
その土地ゆえの子孫感がのちの名籍、血統の意義を導いている。
「命を捨てて、名を惜しめ!」
なんて言葉につながる。
歴史的にこのようは背景、言葉があっても
現代には適用できないのが事実である。
生存権、個人主義の台頭が対峙することになるからである。
「命より大切なものはない」
これが現代、アメリカ的な発想である。
現代日本人は当たり前のように洗脳を受けているが本当にそうだろうか?
これは自由の国つまりはchaoticな無秩序な国ゆえに
自分の命は自分で守れという発想にすぎない。
それも19世紀の南北戦争以降のはやり物にすぎないともいえる。
古代文明からの4000年くらいの間は
ここの命の尊重なんてことより、地域、王座の繁栄こそが重要だったのだから。
僕の個人的な歴史観になるだが、
現在のような個人主義が台頭して個々人の尊厳を説いたことは
人間の歴史において、何度あったのだが、
それが長く続いてはいないではないかって考える。
そして、現代もまたその短い期間なのではないか。
じきにまた個人の尊厳より大切の概念が出てくると確信している。
なぜなら、
古今東西、人間の創作する物語において
自分の命を懸けて、何か守る趣旨の話が
多くの民衆の心を捉える傾向が強く感じるし
それを美談として扱われているところに
人間の性を感じるからだ。
平和な現時点ではあまり使わないし、、、
一生懸命という言葉はもともと封建武家社会の
一所懸命から転換されてきた。
ご恩と奉公の封建で手に入れた土地を
命を懸けて守るという発想。
優先順位は、土地 > 自分の生命 であり、
仮に自分が亡くなっても、
その土地があるから、子孫がそれを守り繁栄させてくれる
その礎に自分はなれるという思想である。
その土地ゆえの子孫感がのちの名籍、血統の意義を導いている。
「命を捨てて、名を惜しめ!」
なんて言葉につながる。
歴史的にこのようは背景、言葉があっても
現代には適用できないのが事実である。
生存権、個人主義の台頭が対峙することになるからである。
「命より大切なものはない」
これが現代、アメリカ的な発想である。
現代日本人は当たり前のように洗脳を受けているが本当にそうだろうか?
これは自由の国つまりはchaoticな無秩序な国ゆえに
自分の命は自分で守れという発想にすぎない。
それも19世紀の南北戦争以降のはやり物にすぎないともいえる。
古代文明からの4000年くらいの間は
ここの命の尊重なんてことより、地域、王座の繁栄こそが重要だったのだから。
僕の個人的な歴史観になるだが、
現在のような個人主義が台頭して個々人の尊厳を説いたことは
人間の歴史において、何度あったのだが、
それが長く続いてはいないではないかって考える。
そして、現代もまたその短い期間なのではないか。
じきにまた個人の尊厳より大切の概念が出てくると確信している。
なぜなら、
古今東西、人間の創作する物語において
自分の命を懸けて、何か守る趣旨の話が
多くの民衆の心を捉える傾向が強く感じるし
それを美談として扱われているところに
人間の性を感じるからだ。
2011-01-07
地道
地道な努力とは振り返って初めてそうだったと思うべきものであって
当人は行っている最中はそう感じてはいないことが多い。
地道なこととは
言葉を変えれば、網羅的に行っていることであり帰納行為といえる。
現代社会は、効率化、短縮化を求めるゆえに演繹法的な決断を迫られる。
すべての想定された対応を可能にするために
すべてのパターンを行うことことが求められ
そのパターン実施はかなり手間と労力を必要とする。
現代人は
労力をできるだけ軽減、皆無にさせることに
価値を感じているし、その労力を軽視する傾向がある。
場合によっては、
そういう地道な努力行為そのものを
違う世界のような論調で述べる輩もいる。
しかし、
現在有名ブランドとなっている
フェラガモ
ルイヴィトン
などはその製法が相当地道で
妥協の無い手間と工数をかけて仕上げている。
だからこそ、
その製品品質に妥協無く安心して使えるのである。
そして、その分がコストになっているといえる。
庶民はないものねだり。
地道な作業を知らない輩こそ
気づかぬうちにその成果物を渇望するものである。
地道な作業を行っている人の思いを
感じてその成果物を使っているとは限らない。
もっとも、地道な作業を行っている人も
実際にはどんな人が使っているかはわからないからこそ
その作業に没頭できるような世の中になっているのだが、、
当人は行っている最中はそう感じてはいないことが多い。
地道なこととは
言葉を変えれば、網羅的に行っていることであり帰納行為といえる。
現代社会は、効率化、短縮化を求めるゆえに演繹法的な決断を迫られる。
すべての想定された対応を可能にするために
すべてのパターンを行うことことが求められ
そのパターン実施はかなり手間と労力を必要とする。
現代人は
労力をできるだけ軽減、皆無にさせることに
価値を感じているし、その労力を軽視する傾向がある。
場合によっては、
そういう地道な努力行為そのものを
違う世界のような論調で述べる輩もいる。
しかし、
現在有名ブランドとなっている
フェラガモ
ルイヴィトン
などはその製法が相当地道で
妥協の無い手間と工数をかけて仕上げている。
だからこそ、
その製品品質に妥協無く安心して使えるのである。
そして、その分がコストになっているといえる。
庶民はないものねだり。
地道な作業を知らない輩こそ
気づかぬうちにその成果物を渇望するものである。
地道な作業を行っている人の思いを
感じてその成果物を使っているとは限らない。
もっとも、地道な作業を行っている人も
実際にはどんな人が使っているかはわからないからこそ
その作業に没頭できるような世の中になっているのだが、、
2011-01-06
学説
ビジネスに注力する僕からすれば
学説は屁理屈と同等であり、評価に値しない。
理論をいくら述べても、
人の生活や裕福感と直接結びつかないからである。
だから、
純粋な学術機関と
企業の研究所と
では雲泥の差を感じてならない。
「純粋な研究に市場介入すべきではない。」
と言い切った学者がいるが、
それに意味があるのか?
その研究開発にかかる費用は市場から調達するしか
現代社会ではありえない。
そもそも純粋な研究と言いながら、
学者の興味のあるものという偏見から起因している自覚に欠けている。
研究における副産物があるにせよ、
学説という机上の空論を声高にいうことは
市場経済の現代においては愚者の戯言と変わらない。
学説は屁理屈と同等であり、評価に値しない。
理論をいくら述べても、
人の生活や裕福感と直接結びつかないからである。
だから、
純粋な学術機関と
企業の研究所と
では雲泥の差を感じてならない。
「純粋な研究に市場介入すべきではない。」
と言い切った学者がいるが、
それに意味があるのか?
その研究開発にかかる費用は市場から調達するしか
現代社会ではありえない。
そもそも純粋な研究と言いながら、
学者の興味のあるものという偏見から起因している自覚に欠けている。
研究における副産物があるにせよ、
学説という机上の空論を声高にいうことは
市場経済の現代においては愚者の戯言と変わらない。
2011-01-05
容量
Capacityとして、納められる量のことであるが、
国際単位基準で考えることができるものは
定量的に数値化できるので、問題はない。
現代において、問題なのは人としての容量のほうである。
人間はじつにやっかいなものである。
同一人物に対して
あるものは
「自分自身の器を知れ!」
あるものは
「勝手に自分の容量を決めるな!」
なんて言われる。
こういう不毛な会話をみると
人間というものが愚かであること
言われている人間の劣勢度が一目でわかる。
上記問題は僕からすれば至極簡単である。
言っている側の愚民の器が小さく、
そしてその自分の決めた容量以上を認められなく
それを転嫁しているだけのこと。
自分の領域に入ってきてほしくない人
自分がやりたくないことを押し付けたい人
それぞれの狭量が導く結果がこれである。
つまりは
「お前は私の考える狭いテリトリに入ってくるな」
「お前は私の考えるつまらない領域で活動しろ」
と何とも器の小さい話なのである。
表向きは人間の上昇志向は称賛しながら、
実際には相手への上昇志向を抑止する。
それが現代人の器、容量といえる。
「そう思っていない」
「そんなことを言えたら、苦労しない」
という反論もまた、、、器が小さい現代人そのものと感じてならない。
国際単位基準で考えることができるものは
定量的に数値化できるので、問題はない。
現代において、問題なのは人としての容量のほうである。
人間はじつにやっかいなものである。
同一人物に対して
あるものは
「自分自身の器を知れ!」
あるものは
「勝手に自分の容量を決めるな!」
なんて言われる。
こういう不毛な会話をみると
人間というものが愚かであること
言われている人間の劣勢度が一目でわかる。
上記問題は僕からすれば至極簡単である。
言っている側の愚民の器が小さく、
そしてその自分の決めた容量以上を認められなく
それを転嫁しているだけのこと。
自分の領域に入ってきてほしくない人
自分がやりたくないことを押し付けたい人
それぞれの狭量が導く結果がこれである。
つまりは
「お前は私の考える狭いテリトリに入ってくるな」
「お前は私の考えるつまらない領域で活動しろ」
と何とも器の小さい話なのである。
表向きは人間の上昇志向は称賛しながら、
実際には相手への上昇志向を抑止する。
それが現代人の器、容量といえる。
「そう思っていない」
「そんなことを言えたら、苦労しない」
という反論もまた、、、器が小さい現代人そのものと感じてならない。
2011-01-04
本懐
あまり使わなくなった言葉の一つだろう。
本懐を遂げる
真の願いという言葉で尊きものであるがゆえ、
武家がこの言葉を使う時には
概ね、死に際に使われることが多く、
言葉の真意と反して忌み嫌うところになっている。
言霊志向の強い日本においては禁忌に近い要素の言葉は
なるべく私生活から遠ざけるゆえに
使われなくなる言葉となりつつあるが、
そうでなくても、現代人に本懐という要素
真の願いというものが本当にあるのだろうか?
と思うことがある。
飽食、
物質的豊かさ
等で目指すものやなりたいものがなくなりつつあるなか、
何を目標に何を人生のマイルストーンにしていくのか
まして、本懐という概念すら
疎んじてバカにする輩の多いこの日本において
目的意識、達成感はないのでは?と感じる。
ただし、いやだからこそ
僕自身は周りの人々に目的意識を徹底させて
それに基づく行動を行わせる。
そう使役する。
その使役に従順、反感どっちでも
気持ちを持ってくれてそれで、個々人としての
本懐を見いだせる礎になれるなら
それも僕の本懐ともいえるからだ。
本懐を遂げる
真の願いという言葉で尊きものであるがゆえ、
武家がこの言葉を使う時には
概ね、死に際に使われることが多く、
言葉の真意と反して忌み嫌うところになっている。
言霊志向の強い日本においては禁忌に近い要素の言葉は
なるべく私生活から遠ざけるゆえに
使われなくなる言葉となりつつあるが、
そうでなくても、現代人に本懐という要素
真の願いというものが本当にあるのだろうか?
と思うことがある。
飽食、
物質的豊かさ
等で目指すものやなりたいものがなくなりつつあるなか、
何を目標に何を人生のマイルストーンにしていくのか
まして、本懐という概念すら
疎んじてバカにする輩の多いこの日本において
目的意識、達成感はないのでは?と感じる。
ただし、いやだからこそ
僕自身は周りの人々に目的意識を徹底させて
それに基づく行動を行わせる。
そう使役する。
その使役に従順、反感どっちでも
気持ちを持ってくれてそれで、個々人としての
本懐を見いだせる礎になれるなら
それも僕の本懐ともいえるからだ。
2011-01-03
発想
新年なので、僕から読者に新たな視点のご提案として。
人間の発想は必ずしも同じではない。
もっと言えば、自分と逆だと考えることこそ
相手の発想かもしれない。
例えば、
ある傷害事件が起きた場合、
多くの人は、
殴ったほうが加害者であり、
殴られたほうが被害者と思ってしまうことが多い。
でも、僕は常に思っているのは
逆に考えることだ。
殴ったほうは、なぜ殴らせることに至ったのか?
殴られた側こそ、本当にワルでなかったのか?
多くの人間の発想はevent-driven
事象が発生してからその事実をもとに考え、行動を起す。
それも伝聞先入観である。
しかし、物事の本質は
事象が起きる前に予兆や別の事象とのlinkageでしかない。
その関連性で物事を眺めるとなかなか新たな視点、そして発想を導ける。
テレビのニュースを見たときに
あえて犯人とされる人は逆に被害者であるとして
その人の立場で自分の正当性、苦痛を考えてみると、、、
案外、自分と同じ境遇だったり、近隣の人にそっくりだったり思えて
だからそういう発想から事件を起したのか!
って納得できることもみえてくる。
今まで、自分の考え、発想に疑問を抱いたことがなかったかもしれないが
その自分の発想力そのものすら否定できる思考を考察し始めるのも
今年、変わりたい自分を見出すいい契機になるかもしれない。
人間の発想は必ずしも同じではない。
もっと言えば、自分と逆だと考えることこそ
相手の発想かもしれない。
例えば、
ある傷害事件が起きた場合、
多くの人は、
殴ったほうが加害者であり、
殴られたほうが被害者と思ってしまうことが多い。
でも、僕は常に思っているのは
逆に考えることだ。
殴ったほうは、なぜ殴らせることに至ったのか?
殴られた側こそ、本当にワルでなかったのか?
多くの人間の発想はevent-driven
事象が発生してからその事実をもとに考え、行動を起す。
それも伝聞先入観である。
しかし、物事の本質は
事象が起きる前に予兆や別の事象とのlinkageでしかない。
その関連性で物事を眺めるとなかなか新たな視点、そして発想を導ける。
テレビのニュースを見たときに
あえて犯人とされる人は逆に被害者であるとして
その人の立場で自分の正当性、苦痛を考えてみると、、、
案外、自分と同じ境遇だったり、近隣の人にそっくりだったり思えて
だからそういう発想から事件を起したのか!
って納得できることもみえてくる。
今まで、自分の考え、発想に疑問を抱いたことがなかったかもしれないが
その自分の発想力そのものすら否定できる思考を考察し始めるのも
今年、変わりたい自分を見出すいい契機になるかもしれない。
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