2021-06-30

娯楽

人間の心を仕事から解放して楽しませ慰めるもの。
大人の娯楽は衰退し、
子供、おもちゃと揶揄された娯楽が大人化、本物になっていくのが
していうことが娯楽の定めでは?

賭場でしか出来ない博打ゲームを庶民化簡易化したのが
パチンコホールや雀荘、、出てきた当初は賭場に顔を出せる人からすれば
なんちゃって賭場じゃないか!ってバカにされたが
今では賭場はない。

クラブで接待の廉価版でつくったキャバクラが
今ではキャバレー、クラブより多くなっている。

テレビゲーム登場期は高価な子供のおもちゃだったが、
今では娯楽産業のトップ、、世界経済を回しているひとつの要素までに
なっている。

そもそも娯楽が童心に戻ったり、本能解放を出来るのだから
子供、おもちゃであるべき。
ただ人間は自分が楽しんでいる娯楽を肯定、他者の娯楽を否定し
自分の優位性を示したがるのも、、本能解放か、、

2021-06-29

実写

メディア媒体の作品を現実の人が演じて興行する活動。
メディアクロスの市場に生きている自分が言い出すのなんだが、
それを芸能人で実写化する意味がわからない。
すでに出来上がっている作品にすでにキャラが出来上がっている芸能人に
無理やりコスプレさせることに意味があるのか?
純粋な作品のファンだけでなく、その芸能人のファンも取り込もうとする
発想でいるならば、その味方がマーケティングの考え方が古い。
純粋な作品のファンが自分に合わないキャスティングされることに
怒りだすことは多くの作品で原作凌辱って言われだしているのだから。


2021-06-28

長尺

普通より長いこと。
主に放送、配信で使う業界用語に近い。
だから、強弱のキョウジャクと聞き間違えないように、
ナガシャクって呼ばれたりする。
長尺回しっぱなしシーン
長尺なセリフ
とかで使われる。

長いことが得られるテンポよく伝えられると思う反面
一方的投げつけられる観客側の受け取り方では
うんざりすることもある。
その観客のマインドも時代、作品への熱で変わり
信者に近いと長いことにありがたみがでるが
そうではないと逆にSNSでうざいと叩かれるだけ。
なかなか愚民、、民衆の扱いは面倒なこと。




2021-06-25

画一

どれもこれもそろって同様なこと。また、一様に統一すること。
今となっては個性とか右にならえではなくなった。
しかし、昭和後期、自分が子供時代は画一的が当たり前だった。
とりわけ義務教育時代は。
うちの母はなぜか学校指定に逆らう癖があり、
・ノート
・ハーモニカ
・縦笛
・裁縫箱
をすべて自分で買ってきたものを子供である僕に渡して
授業に出させた。
画一教育重視主義の教師は
・ノートの3行目から
・ハーモニカについている赤い位置がドです
・笛と一緒に入っている棒は掃除用の棒で毎回それで洗って
・裁縫箱の右上に入っているものがボビンです
と言われるが、僕にはそれがない。
そのため、周りの子に聞くが、、、それで区別、いじめの温床に。
この事実を母に言っても、ちゃんと教育できない学校が悪いで他人事。
一番被害を被ったは僕だったことが今感じられる。

画一がなくなった今の社会、
それは正しいの今であり、過去にそうではなく苦労したその苦い経験は
自分にしかわからない。
ある意味、なんか社会から損を受けているとしか思えない。

2021-06-24

身内

親類。拡大解釈では近い関係者。
身内を頼れるという発想は前近代的、、いや人間の悪い生存本能かもしれない。
自然界を見てほしいが
生まれたときから生存競争で同時期に生まれた兄弟とは争い始めている。
ある種は、他の卵を追い出したり、割ってしまったり
ある種は、乳のでのいいところを奪い合う。
また、成長しても尊属であっても争うボスの座があったりする。
それは本能的に生きているからであり、
社会性をもった人間ではそんな争いはないと言い出す。
本当だろうか?
人間の抗争の多くは身内ばかりではないか?
骨肉の争いとか、内部告発とか。
一番の敵は身内というのは自然の摂理と認めるべきでは?



2021-06-23

左官

建物の壁や床、土塀などを、こてを使って塗り仕上げる仕事、
またそれを専門とする職種のこと
存在、語源ともに他国から理解できない言葉かもしれない。
内装ではなく、壁専門な役割であり
民間業務なのに、官吏の官の字が入っていることは。

左官の特殊技巧の代表は漆喰塗だろう。
日本の多湿で木造建築においては腐食などを守るために生まれた漆喰技術。
その技術の高みは高く職人の価値を認めざる負えない。
そして、その技術で寺社仏閣、宮殿づくりには必要で
木を扱うのを、右官
そうでない漆喰などを扱うのを左官
として、官位をもって公共事業にあたっていたのが現代への語源となっている。

現在の西洋建築では少なりつつある漆喰壁。
その技術継承もかなり厳しいということであるが
僕としては技術、理論が重要であって、
人的継承にこだわらず、
デジタル、データ化にしないほうが悪いって思うのは
なぜか不敬とみなされるのは、、なんかなーーっと感じている。

市場、社会から価値を喪失させられているのに
それを残す方法で不敬ってどれだけ庶民は自分本位なのか、、

2021-06-22

温州

なんて読む?
オンシュウ?
ではなくウンシュウとのこと。
州という文字やみかんの歴史を感じるとどの藩のこと?
これも実は、中国の地名とのこと。
温州みかんは中国発祥のみかんなの?
いえいえ、
薩摩、鹿児島県の長島地域が発祥の地なのだが、
当時では柑橘類の名産地である中国の「温州(ウェンジョウ)」にあやかって
この名前が付けられたということ。

なんかいろいろといきさつがある、温州みかんの温州だこと。


2021-06-21

容姿

顔つきと姿。みめかたち。
容姿についてコメントされたことで物議をかもしている。
しかし、たった四半世紀前まではこんなことあり得なかったし
今の扱いがなかった。
自分の容姿が醜い自覚がある。
それゆえ、気を付けているが
心無い異性の口の悪い同級生から
「近くにいると気持ち悪い」
と言い出して、耐えて行動に気を付けていたら
調子乗って言いたい放題だから、僕のロジックで言い返した。
そうしたら泣き出し、僕がいじめをしたと罰せられた。
なぜ、こんなにあうのか!
僕はずっと社会を呪っている。
、、、、
現代社会それが改善してきたかもしれないが
それも表面的だろうな。
現実問題、こういうバカは罰し、滅することがない以上
人間の社会は何もかわらんだろうけどね。

2021-06-18

森閑

物音もせず静まり返っているさま。
この言葉で代表されるように
森は静かであることの代名詞になっている。
まー、森と林の違いが、自然か人工かの違いのように
人の手が加わっていないことものこそ森なのである。
では本当に森は静かか?
確かに生命の息吹の音は数多発生している。
しかし、その音を雑音には感じないだろう、人間は。
人間、強いては動物は
本能的に自分への敵意の音を雑音、そうでない音を静音に感じるのだから。
人間の一番の敵は人間だけに、、
森閑を求める人が自分以外にいると
その環境は森閑ではなく、敵地になるんだろうな。

2021-06-17

境内

神社・寺院の敷地の内。
普通に、ケイダイと読める人は多いが
境は基本、キョウと音読み
内も基本、ナイと音読み
二つ合わせるととケイダイって日本語初心者には難しいだろうな。
これを外人の日本語練習者が
キョウナイって読んでも寛容になることがあれば
それは
グローバル化?日本語の崩壊?
どっちにして日本語はやはり使いづらいと言わざる負えないかな。

2021-06-16

忌避

ある人物や事柄を存在してほしくないとして避けることや、
ある人物や事柄のようになりたくないと念ずる感情である
要するに、受け付けないっていうこと。
自己主張として忌避を口にするときに
それは差別、我儘である自覚はあるだろうか?
逆にその発言のために他人から忌避を受ける覚悟はあるのか?!
どうも、現代人の考慮のなさを感じてしまう。
自己主張=自己責任の理解のなさがひどくないか?

2021-06-15

気後

何かしようとする時、自信がなくて心がひるむこと。
気後れが起きる自信とは何か?
多くは他人の目である。その行動の成否どころかその行動を自分がしていいのか?
それを気にするからである。
しかし、その思いこそ礼儀であり、
気後れしない輩はある無礼であることが多い。
個人主義の台頭で無礼であることを指摘することが
ハラスメントになっている狂った社会、
それでいいのか?

2021-06-14

遊具

遊びに供するために利用される道具・設備。
これもカタカナ偏重主義に犠牲の言葉か、
遊具というと滑り台、ブランコ、シーソーなど
ありきたりの公園の幼児設備がイメージされるかもしれない。
アクティビティとかいうと
ジップライン、アスレチックなど大人でも楽しめる施設、設備になる。
遊具、アクティビティは同義語なのだが、
日本人のイメージ戦略なんだろうな。
こういうカタカナ偏重で価値がゆがめられるのだろうな。

2021-06-11

流出

内部のものが、外部に出て行ってしまうこと。
自社、自国の人材流出、技術の流出
という。
また被害者と加害者を作為的に入れ替えている。
人材流出、技術の流出は
職業選択の自由や人材や価値に正当な評価を受けていないから、
自発的に外部に出ていくわけであって
出て行かれてしまった側は被害者ではなく、
冷遇をした加害者なのである。
そこを反対に捉えている今の価値観に違和感しかないが
それで民意誘導を狙う社会統治体制が果たして、、、

2021-06-10

首輪

首に着ける輪。
識別や誘導用に動物につけるもの。

幼児に首輪をつけている親
犬を家族と思って首輪をつけない飼い主

「幼児に首輪をつけるなんて人道的ではない」と責めるが
自由にハイハイさせたいけど、段差があるところなので
どうにか危険を察知したいがため、どうにか経済的やりくりするために
手ごろな金額であったペット用首輪を異化させた親心は正しくないのか?

自分たちからすれば家族でも他人からすれば犬は犬。
その犬がじゃれあっているとか言う論理で近寄ってきたら
犬嫌いな人からすればいい迷惑、それを迷惑と払うと
「私たちの家族に何をするの!」っていうことが人道的か?

最近の人間の個人主義には善悪、道理なんてありゃしない。

2021-06-09

内線

内線電話。組織内専用の電話番号で通話できる電話網。
大きな企業組織が前提と対する外線の通話料の高さで生まれた装置網。
しかし、雇用形態の変化、通信技術革新で内線電話需要はないに等しい。
大きな企業が同一活動をするのではなく、事業体独立採算、そのうえ
人材は非正規雇用にしているので、内線で会話する対象者数が激減。
そのうえ、通信アプリで通信料の小さいメッセージどころか
音声、、動画通話さえも通信料が激安になってきた。
もうすぐかな、、内線という単語が社会で使われなくなるのは。

2021-06-08

直販

直接販売の略語。
今ではメーカーから直接買うことが販売チャネルの一つになっている。
しかし、昭和末期まではメーカー直販など概念がなかった。
製造
販売店
の固定概念で経済が成り立ち、販売価格が全国共通だった。
でもこの時代にはニートのいなければ、貧富の差もなかったような。
メーカー直売で流通商流コストを削減でき安くなったが
その分、メーカーは自社で販売業務をやらなくてはならないので
社員に無理させると「物を売るためにメーカーに入ったわけではない」
と社員モチベーションが下がったり、辞めたりして人材不足に。
対して、
卸、販売店は仕事がなくなり、雇用や経営が維持できなくなったり。
となんか経済循環を悪くしたともいえる。

庶民が安いからと飛びつくことは経済活性化というが
僕の神瞰からすれば、経済が周りがおかしくなり構造的不況を導いているなあ
ってしか見えないものだ。

2021-06-07

食通

料理の味や料理の知識について詳しいこと。
とりわけ味覚が鋭いことだろう。
でも今はこの才が認められるようになっているが、
昭和期はひどかった。
味覚、嗅覚が鋭い僕はそれに敏感だったが
それを認めない社会では
~どれも同じなのに、がたが言うな!
~食べ物を粗末にするな!
って言われ無理やり食べさせられて、
精神的にやる気のなさ
そして肉体的に蕁麻疹アレルギー
をこじらせていた。

今では子供がそういうとすぐに反応する時代になっている。
なら、僕への賠償は?
いつかこの社会に報復したくてたまらないねえ。

2021-06-04

取込

別に存在するものを内包させるように吸収すること
とは別に
忙しいこと
という意味をもつ。
忙しいという意味での取込は辞書的には
不幸など、不意の出来事や急を要することなどで、忙しく落ち着かない状態
とのこと。
、、、、どうしてこう派生したのか?
なんとも理解できない。

取込の意味に、マイナスの意味での忙しさを’取り込む’必要はあったのか?


2021-06-03

巻込

ある人間関係や事態に引き入れる。巻き添えにする。
現代社会が複雑ということは
この巻き込み関係が加害被害をおかしくしている。
起因となった輩が巻き込まれ発言で被害者面する。
巻き込まれた側なのに、加害扱いされる。
本当にこの社会は面倒なことになっている。
僕からすれば、他人と接するから巻き込まれるのであって
他人と距離をとることが一番の安全策。
それではコミュニケーションとして、、というが
そもそもコミュニケーションこそだ巻き込まれ、そして不快の根源ではないか?

2021-06-02

商魂

商売をますます繁盛させようとする気構え。
日本の価値観は儒教の教えが強く
儲かることへのうしろめたさがある。
また、儲かっている人に対して批判的なる。
対して、外国欧米どころか、儒教発祥の地である中国では
儲かっている人への憧れ、目指す対象であって
個人批判はあるものの儲かっている行為そのものへの批判はしない。

この商魂というか、儲けることへの価値観の大変革なくして
日本初のサービスはないのでは?
「なぜ日本人から新しいサービスが生まれないのか!」
って他人事のいうバカがもう一方で、儲かっている人を同じ口で批判する
ところに新しい発想なぞ芽生えるか!って思ってならない

2021-06-01

懺悔

自分の以前の行いが悪い事だったと気づき、
それを悔いて(神仏などに)告白すること。
あくまでも、自分が自発的に行うものである。
しかし、現代社会
他人に懺悔を求めるとか言い出す。
その発言そのものを懺悔すべきでは?
もはや
自発を促すとみなして表現の自由とすべきか?
とてつもない精神的迫害なのか?
の判断つかない混沌な社会だこと。