2016-10-17

漁読

もしかしたら、僕の造語になってしまうかもしれない。
しかし、現代社会の熟語の多くは
明治時代の翻訳や活字により生み出された言葉が多く、
逆に今、新しい熟語が生まれないほうがおかしいとおもうこともある。

本題に戻そう。
僕は本、書籍を数多く読み、ただ読み漁っているだけである。
人によっては、どんな書籍からも得るものがあるとか、
ひとつの書を暗唱できるまで読み込むとか言い出す人も言える。
僕からすれば、その書の中に、
少しでも自分の人生に役立つ文が存在するかどうか
それだけのために読み漁る。
はっきり言えば、現代の作家、執筆家の著作物など
大したことないと見下してしまうことがある。
それは物であり、そのモノから何を得るかだけである。
道具、食材、と書籍は同価値しか僕は感じてない。

ある意味、製造物、生産財に過ぎないとみなしている。
その中で好き嫌いをもって、ものにあたることは現代人として当然であり、
その中で自分にとって都合にいいものがあれば、それでいい。
そのために、そのいくつかをみつけるために、読み漁っている。
漁っているのは、自分の金で買っていて、その対価において、
使えないと判断できるのだから、別に問題ないと思っている。

本を多く読んでいるから偉いではなく、
多くの本などの情報から、気の利いた発言、行動ができるか
それが偉いかどうかであり、読書は手段にすぎず、
その手段の在り様として、僕は漁読をしていると感じている。

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