2014-02-28

序文

書物の初めに、著作や出版の趣旨などを書き記した文章
はしがき

現代人は序文だけでその良し悪しを判断してしまうこともある。
逆に言えば、序文がしっかりしていれば
本文なんか多少駄作でも構わないともいえる。

物の本質がわからなくなってきている。
すべてのことを理解する時間が個々人に許されなくなっている。
いかに短時間で、いかに要領、趣旨を理解できるか
それを序文に求めてきている時代なのかもしれない。

2014-02-27

突合

突合せ、、、
トツゴウって読む。

それぞれの見解を突き合わせするとき
ある管理職が
「それぞれをトツゴウさせて、、」
と発言したとき
ある一方の管理職が
「トツゴウって日本語はない!」
って言い出して、大激論。
辞書的にあるのだが、
「今の日本人は狂っている、そんな日本語を作って!」
ってとあくまでも自分が正しいと言い出して
「なら、日本人をやめろ」
となって、また激論。

実にいいトツゴウだった。
っで、その時の本題は、、、何も進んでいない。

突合せを行うということは
結構、先に進まないものだと感じてならない。

2014-02-26

感性

美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力

人が世界や外界の事象(もの・こと・情報)に感覚というフィルターを通じて出会い、
関係性や意味性を生み出し、創造性を展開ていくという、その固有の形式や能力

外界からの刺激を受け止める感覚的能力

といろいろと言われている。

僕の結論として、感性なんてものは存在しない。
それは自分の思い込みを他人に押し付ける口実でしかない。
ゆえに、感性を口にする人間は、
排他的であり独善的な思想の持主ということだけが
確実なことといえる。

相手の感性にあわせることで
気苦労する人が多い。
それはそうだ、自分ではない価値観に迎合する苦痛は
自己の尊厳に関わることなんだから。

2014-02-25

仲介

 当事者双方の間に立って便宜を図り事をまとめること。
なかだちをすること。

世の中の仕事の大概が実は仲介だと僕は思う。

不動産が仲介と一義的に考えてしまうが、
小売りは、客と卸
卸は小売りと生産者
生産者は卸と、、、土地
の仲介者といえよう。

ITとて、
管理職などは、客とメンバ、、だけでなく
PGMとて、設計者とコンピュータとの仲介者とみなせる。
自分の仕事はどんな仲介をしているのか
それを意識すれば、自分の立ち位置や役割を自ずと再定義
思わぬ発見ができるかもしれない。

2014-02-24

湖畔

湖のほとり、、
沼と湖の違い、、
ほとりって、、
はっきり言えば、
現代の都会暮らしにおいて、
湖畔を意識できる環境は皆無だろう。
もっといえば、湖畔という概念すらなくなるだろう。
この事実を悲しく思う人がいるだろうが、
湖近くで水難事故を危険と判断した安全基準を優先した当然のことなんだが、
庶民感覚では
あれもこれもっていいだすが、二律背反をもっと意識してほしいものだ。

2014-02-21

備品

業務に必要なものとして備えつけてある物品、
ということは、その業務に携わっているからこそ分かることといえる。
なんぜか最近の社会人は相手のことを理解しないでの
発言が当たり前のように口にする。

「なぜ、そそこに備品がないんだ」
「こんな何もない状況で何をしろっていうんだ」

って恥じらいなく言い切る。

逆に考えよう。
備品も何もかも用意されている状況であったら、
君のような人材を呼ぶわけないだろうが!

どうしていいかわからない、そんな状況だから
その業務に精通している社会人に声をかけるわけであり、
そちらの当り前が通じないことのほうが当然な社会なのだか、、
その自覚がない人ほど、、スキルが高いとされることが多く
真面目に扱いづらい輩が多い社会だこと、、
これって本当に能力主義なのかねえ。

2014-02-20

漫画

定義があってないようなもの。
つい最近まで、卑下された表現を受けてきたか
今では、日本を代表するビジネスコンテンツになっている。

官僚たちの世代が変わり
外国からの評価を得て、
あたかも、自国の文化みたいに言い出しているが
それまで、勉強、教育の敵としてきた事実は、、、
あたかも、キリスト教を国教に取り込んだローマ帝国の振る舞いを彷彿とさせる。

もはや否定できないものになっているが
未だに
「それマンガチックみたい」
と使われ方もする。

おや、マンガチックっていうけど、
そのくらい喜怒哀楽がない今の現代人こそ
昭和初期に漫画に批判された未来人になっているような。
批判してきた社会。
すでに漫画から未来は批判されているとは、皮肉なものだ。

2014-02-19

代理

ある行為について本来行うべき者に代わって一定の者がその行為を行うこと。
代理行為の正当性については証跡と与信、両方が求められる。
一方だけでは、正当性がないといわれかねないのが
現代社会だといえる。

本人直筆の委任状を持ってきても
その代理人がどう見ても面識も関連性も見いだせない人だったら
その代理行為をさせることに懸念を抱くだろう。

逆に、従兄と立証できて、言い張っても
委任状がない状況では
その代理行為をさせるわけにはいかない。

代理が成り立つのは
簡単なようで、結構ニッチな条件だったりする。

近年は電子的処理、世の中が物騒になり、
本人認証が極めて重要になっているだけに、
これからの代理の考え方、運用もそろそろ見直されるべきだと
思ってきた。

2014-02-18

花押

今では使わないが、
自分が書いた証明に、文末に自分が書いた証の模様、記号を描いていた。
今でいえば、サインとなるが、
ある意味、この花押という文化はいいものだなあって思ってしまう。

筆跡で個人を特定できるデジタル解析ができる時代だからこそ
ある意味、自らの手で施す模様、記号に温かみを感じるのは
日本におけるオールディーズなのかもしれないけどね。

外国の最先端を追いかけるだけではなく
日本の古きをもう少し調べ、
やってみることもあるべきと思うだけに。

2014-02-17

消耗

平気で、しょうもう と読むが、
これは百姓読み 本来ならば  しょうこう である。
心神耗弱 は しんしんこうじゃく  と 今でも こう と読む。

百姓読み、
学のない人が間違えたことが広がって、今ではそれが正当になっている。
これって日本人の特徴で、百姓読みは未だ今でも行われている。
うるさい は 正しく 五月蝿い  しかし、現代の百姓読み  ウザい。
正しい日本語について、何度も僕は批判的に記述してきているが
こういう事実をちゃんと理解することこそ、正しい日本語の理解ではないだろうか?

2014-02-14

日誌

日記と日誌の違いは?

辞書を引いていも同じようなことをさぞ偉そうに書いている。
違いは、、、記と誌の文字的意味を調べるべきであろう。

記は、、、基本自分へのメモ
誌は、、、第三者に読まれる前提のテキスト

これで意味が通じたかな?

要は、
自分の振り返りのためならば、日記
誰かに伝える要素があるならば、日誌
ということになる。

これはもう言葉遊びになりつつあるが
日記に書かれたことに恥ずかしい内容をありそれを暴露される概念があっても
日誌はそうではなく、第三者にわかりやすくなっていなくてはならないことを
ちょっと意識すると、業務日誌の書き方も変わるかも、、、

2014-02-13

仮想

実際にはない事物を、仮にあるものとして考えてみること。仮に想定すること。
ITにおいてはいろいろな、、とりわけクラウド技術においてはしばし使われる言葉。

日本語にしてしまうと、仮の姿と表現されるが
それは物の怪思想のように感じる。
英語ではvirtual は仮想とは全く逆の、実質上、という意味である。

ITにおける仮想は仮想ではなく、
今までと異なる実態で実現させているという意味である。

こういう感覚的誤訳がのちに大きな問題、、
強いては日本語がどんどんグローバルとは言えない言葉になる温床といえるだろう。

2014-02-12

経緯

今回は、いきさつ のほうで、

事件、問題が発生すると
当事者以外の人がことの経緯を求めてくる。

僕はこの行為はもう止めるべきであると強く思う。

経緯をちゃんとまとめて報告すると、
「わかっていたなら、なぜこうなったんだ」

逆に経緯を説明できないと
「わかっていないから、こうなるんだ」

とどっちにしろ、文句を言われるだけでかつ
それに対して、責任あることや前向きなことに対して
「それはそっちの責任でやれ」
ということが実に多い。

弊社では、経緯は日報で日々把握して
事件が起きた場合、経緯をたどるのではなく
日報という経緯をもとの対応を協議、立案するのである。

知的好奇心なのか
情報を集めて責任とらない行為が蔓延しているが
興味と責任があれば、日々情報はとれるものだと僕は確信しているし、
現にそれで事業管理ができているのだから。

2014-02-10

出掛

テレビで
自然災害に向けて、行政施策を考えるより
そういう自然災害のときには、出掛けないこと
外出しなくてもいきているでしょうが、この時代。
ってコメンテーターが言った。

僕もそう思うし、
考えてみれば、
出掛けること自体が社会悪と感じてしまう。

出かけるから、
他人と接することで、交通事故、他人とのトラブルが発生する。
交通事故も乗り物に触れなければ起きない事実を多くの庶民は忘れすぎである。

それに他人と会うことが善であるとはいえない。
無駄な会議、
会いたくない人との共同活動、
人と一緒に行動する必要が必ずしも、、
そして、能力主義の多く、個人に帰属することであり、
手柄の奪い合いになる集団活動。

そこまで考えると
わざわざリスク、ストレスの高い外出を推奨スべきではないと思うことが多い。

宅配の発達、
情報の高速化、高度化で
どこでもビジネスができるこの時代。
無駄な交通費を使って出かけることの必要性を
庶民の大好きな効率化で考えてみれば
自ずと非効率って結果になるはずなのに、、
なんとも、この社会は、、、

2014-02-07

峡谷

渓谷(けいこく)の幅と比較して更に深い谷のこと
かなり、定性的な定義になっている。

日本は風土的に、谷が多い。
実は自分のところの谷が一番すごい、、
そんな思いが
渓谷
峡谷
という他の谷をより際立たせる表現を導いている。

とはいえ、谷というものは
人間の生産性にあまり影響というより、
苦しめていることが多い。
それを、、一番すごい、、、
あっそういうことか、自分を苦しめているものが他人よりすごいんだと言いたいがためか。


2014-02-06

原野

耕作の方法によらないで雑草、かん木類の生育する土地、
野原のこと。

原野、野原、同じ意味とは。
つまりは、野、原ともに同じ意味だから上下が変わっても影響がないということだ。

日本において、
何も人手が施されていない場所は原野に近づく。
つまりは、草が生えてくる。
それは、日本だからという視点もある。

乾燥地だと土が砂になり、
高所では、風で風化する。

人手が入らない場所に生命が息吹くということは
日本の当り前、世界では稀なことという認識を持つことも
ある意味グローバルな認識といえるかも?

2014-02-05

成果

成果が出ているということはどういうことだろうか?
数字が上がっている。
数字って結構いじれる。
母数、調査の仕方、裏付け根拠で
いくらでも動かせる。

だから数字で立証しても
その成果に満足できないことが多い。

そう、満足である。
成果が出ているとは満足させたかどうかであって、
その満足をどう実現させるかであり、
必ずしも数字ではないと僕は強く感じている。

もっと言えば、
成果が出ているから満足しているのではなく、
満足しているから成果と認めるというのが
現代社会である。この事実を案外ゆがめているのも現代社会であり、、、

いくらやっても成果が出ないということは
そもそも、何も満足する要素が
当人からでない以上は無理だと割り切るべきだといえる。

2014-02-04

馬脚

馬脚をあらわす。
この諺は馬の足ではなく、
芝居のとき、馬役の足が見えてしまうことで
悪事が明るみにでるという意味。

ちょっと分析すると、
諺は歴史があるとされるが、
いつから出来たか、、
この諺は、芝居で馬の役があるという状況からであり、
芝居のような文化的要素が前提になっている。

となると
芝居が起きた時代以降に成立しているということであり、
必ずしも古来からとは言えない。

逆に考えると
これからも諺が発生してもいいといえる。
覚える諺から作る諺の概念、
現代人にはなんか欠けているというか、違っているというか、、

2014-02-03

追廻

逃げまわるものを追い回す。
しつこくつきまとう。

TPOによって、犯罪に繋がる、、、、というが、
実は追い回される側のほうが悪いと思うべきだ。

何をしたから
追廻が発生している。
その自覚がないから、被害者面をしたがるが、
それこそ、僕は問題と思う。

借金や不当な行いは追廻されても当然と思うようになっているが
ストーキングや怪しい追跡についても、
根本的にプロファイリングをしてみれば
追廻される自らの不徳が必ずある。
しかし、この社会はおかしくそこに言及しない、
プライバシーやらよくわからん思惑が見え隠れする。
僕つぃてはある意味、そこを追い廻したくなるけどね。
追回す事実より
その原因こそ、重要な情報なのだから。