2011-02-10

不運

世の中では数値化できないことだとわかっているから
僕は自信をもって言える。

自分は相対的、絶対的に不運である。

だから不幸なんて結論付けることはない。

不運であるからこそ、
今自分が生き延びているのは、
ひとえに、自分の能力だと自負できる。

運が絡む要素で得られる結果がないと解っているからこそ、
運に頼らないように一切を把握するようにしてきた。
・気候変動
・洞察
・描写
・経験
を身の回り、社会、人物の動静に目を光らせてきている。

それにより、
今の自分があるし、
今の自分がここまでというのも自分の責任といえる。

この目の光らせかたを
刹那で見れば、才能であり、
長期で見れば、努力と他人に評されるが
それは呼称の問題すぎない。

だから、
「運が良かったんじゃない」
という軽い言葉を発するのは
人の見える目がないと判断できる。

運と言うものがないこそ、僕の能力の源泉であり、
今の結果といえる。

2011-02-09

懲悪

悪を懲らしめる。
なんとも、すがすがしい言葉に感じるだろうが、
僕からすれば、社会的暴力の前兆にしか見えない。

そもそも、
懲悪行為を、悪がいるから懲らしめると考えているかもしれないが、
懲らしめるべき存在は本当に悪なのだろうか?
懲らしめることが出来る存在がいるからこそ、
悪とみなすべき存在を作り出さなくてはならないということを
考えたことはあるだろうか?
人間は自ら悪になるのではなく、
他人に悪にさせられるということを
わかっているだろうか?

吉良上野介は地元では治水、新田開拓を推し進めた名君であり、
石田三成は関が原の農民を全戸に退避勧告と保養地を用意して戦に挑んだ。
世間で言われる悪人の実像はこうである。

力を持つものは
その力の正当性を維持するために
懲悪行為を創設する。

懲悪とは善なる行為ではなく、
権力の確固たる物とするための軍事的、暴力的威嚇扇動行為であると思うべきである。

聖戦、
正義のための闘争、
、、、暴力反対って思いを胸に、
殺傷兵器を振ることに
陶酔し易いのは人間という動物の性だといえる。

2011-02-08

旗艦

フラグシップ。
その一覧の集まりを代表する存在を示す。

旗艦の特徴として
・その集まりの一員であることを示しながら、他のものと差別化を行う
・その旗艦の退廃がその集まりの退廃につながる因子を持っている
ということがあげられる。

軍事用語だったが、
フラグシップモデル
旗艦店
のように気づかぬうちに日常用語になってきている言葉だが
その語源と意義については多くの一般人は曖昧なところだろう。
だが軍事並み、いやそれ以上に
販売戦略、マーケティングの観点ではこの発想が重要。
旗艦要素の分析により、
その販売戦略の成否、今後活動方針を決めると言って過言ではないから。

旗艦に代表される軍事用語は
ビジネスの世界で広く流用されていることは
このブログで多く述べてきている。

軍事用語が平和で廃れて、一般生活に降りてきたわけではない。
最先端は軍事であり、
その発想がビジネスに伝播されて
ビジネスマンがその用語を私生活に用いているのだ。

日本人初のビジネス用語、ビジネスルールの発祥が少ないのは
軍事活動、軍事産業が公に認められていないからという視点も
成り立っているといえる。

2011-02-07

抗議

無駄な行為といえる。

世の中では
「相手国に抗議声明をだした」
「今回の件について抗議をあげる」
「抗議の声が上がっています」
という報道がされるが、その抗議が直接的に影響を与えることは
100%ないと言い切れる。

日本のように抗議によって謝罪することがあるが
それはなんだろうか?
意味があるのかわからない。

抗議に意味を持たせるには
威嚇、威圧、強迫観念を誘引させる必要があるし、
現実、歴史的にも抗議をしたという表の話と
それを裏付ける’力’の暗躍はおのずとわかる。

抗議する気持ちはわかるが
力なき抗議は、
負け犬の遠吠え
であることを、日本人は強く理解すべきだ。
欧米では、理解されず
アジアでは、逆に反感を誘引させるだけ
である。

抗議をする、、、ではなく
抗議することを他に起こさせない力
抗議をしているふりをして、暗躍する力
が現代国際社会の力であることを自覚しよう。

2011-02-04

親子

自分の親を自覚するとき、みんなはどう感じるだろう。
・見た目
・声質
・好み
といろいろとあると思う。

でも一番の尊属、血族を感じるのは
行動、仕草
と思ってならない。

確かに見た目等の造形的な遺伝は
科学的に立証されているからこそそうだと思うし、
そこで遺伝子レベルはあるだろう。

しかし、親子、家族であるということは
僕としては、遺伝子ではないと言い切れる。
逆に遺伝子レベルの一致であっても親子、家族だと思わない。
それは、今日の生殖医療があるからだ。

親子であることは
同じ時間、空間、寝食、することで成り立ち、
同じような条件反射が身についていく過程で
親子しての相互自覚で成り立つといえる。
それゆえ、些細な行動、仕草が
その親子の証明に自他共に感じることといえる。

だいたい、みんなだって
自分が親、子に似ているって言われたときに
「そうです、そっくりです」っていうことはまず出来ないだろう。
毎日見ている存在に自分が似ているといわれても自覚がないだから。
だけど、ふとした行動、仕草が自分と同じ場合に
自分はその一親等なんだと強く自覚することもある。
他人に言われるより強く感じる因子ともいえる。

いくら生殖医療が成長しても
親子、家族概念を全否定はできないだろうし、
その概念を持たないだろう。
親子であることは生物として成長するためにはあるべき関係だろう。

もし、時間があるなら
自分の一親等をじっくり見てみよう、
案外、同じだ!って思うことが多くあるかも?

2011-02-03

殺人

物騒なタイトルだけど、真意を伝えたいのであえて。

ノーベル文学者が

「殺人が悪いことなんて、あたりまえではないか!なぜわからないんだ!」

と憤慨した投稿を目にした。

文学者であっても、哲学者、研究者の視点はないんだなあって思った。
当たり前である理由がないものは当たり前であるわけがない。
その理由も考えずに、憤慨する感情論は僕は卑下したい。

殺人が悪いということを本当に考えて説明できる日本人が少なすぎる。
それは殺人行為が自分にとって悪いことになる実感が沸かないからではないだろうか?

人間以外の動物は自己生存のために
縄張り、自己および子孫繁栄のために
同種を殺すことをいとわない。

人間とて、古来より、戦争において、
殺人を目的として、生き延びるための行為をしてきた。
そこで、殺人を卑下している人は命をたたれかねない。

近代社会を構成する社会集団にり、殺人を行うと
・そのステークホルダーから感情的に憎まれ、コミュニケーションが疎遠になる
・社会全体としての1人分の生産性を失う
・次は自分が狙われるのではないかという不安から十分な社会的パフォーマンスが損なわれる
という負の連鎖が行われ、人間社会全体としてのマイナス要素が多いと判断され
コミュニケーションという社会性を維持している人間社会においては禁忌とされるし
行為の抑止をするようなルール作りが行われてきた。

殺人が悪いというは意味を正しく理解するのであれば
殺人という行為により、
自分および自分のステークホルダーの生命維持が危ぶまれる因子が多いから
やるべきではないというべきであろう。

ここでは極端な話である殺人という行為に言及したが
物事には、それなりの理(ことわり)があり、
それを実現させるために、ルールや禁忌があるのである。

「禁忌だ(当たり前)、ルール(法律)があるからやめよう」
という発想、教育そのものが社会性を損なっていると感じられてならない。

現代人の鵜呑み発想の偽善的洗脳行為
あまりにも、
イワンのバカを連想してしまい僕はちょっと、、、と感じてならない。

2011-02-02

届出

公官庁への申請において、届出、許認可とがある。
その届出の仕組みは現在において有用といえるだろうか?
何も公官庁に限らずとも、
届出行為そのものに言及すべきであり、
届出という行為からして、
届出を事前に行えばいいというのは
説明責任
内部統制
という最近の組織管理の観点からして
行動に意味を成さないものと捉えるべきだろう。
「申請を届けているから」
という問題では済まされないことがある。
届出という行為は組織として体制としての許認可をすべきである。

民間企業組織に統制しながら、
取り締まる公官庁側がそれでいいのかという思いがめぐる。

基本、社会は自分のことは棚上げだということだろうと
感じてならない。