2013-04-08
割箸
僕が学生時代、
お弁当の箸を忘れたときは結構悩ましい事態だった。
思春期の友人同士だけに洗って貸し借りが気むずかしかったり
鉛筆2本を、、
スーパーに行楽セットコーナーで何十本も買うことに、
気の利く人は、机に割箸を置き箸しておいてくれているなどが
とても嬉しかったものだ。
しかし、今は
コンビニがどこにでもあり、声をかければ気軽にくれる
それどころか、お弁当を忘れても気軽に手に入る状況になっている。
便利になるということは本当にすごいことだ。
今まで、気恥ずかしく、そしてとてもつらい思いが
今では、何が問題かすらわからなくなるようになるんだもの。
2013-04-05
冗談
ついこの間のApril Fools' Day.
いろいろと嗜好を凝らしたものが多く出ていた。
でもここ最近、本当のバカが増えて困る。
そういうものだという認識できずに
信じこんでしまった者が
誤認させて迷惑したとして賠償を口にしている。
僕からすれば
以前、自分自身も信じこんでしまうほどうまいものがあり、
それを第三者に口にして恥をかいた。
あとでそこまで信じこませる技巧を称賛したものだった。
冗談レベルを信じるかどうかは受け手である当人の能力の問題であり、
その冗談で利益をあげようとしている毛ではないのだから
詐欺でもなんでもないのだが、、
冗談は知的遊戯である。
そう知的遊戯である。
だから、生兵法は怪我の素。
そう頭がいいわけではない者が干渉するなといえる。
市場開放のせいで、
恥じらいもなく、自分を誇示することが多く嫌になる。
まーー、これは江戸から明治にかわる変動期にも
身分平等で同じ事象がおき、
結果的に、そういう冗談レベルの機知のある人のみへの対応
<一見さんお断り>
が生まれたという歴史的なこともあり、
歴史から学べるなあって思うところもあるけどね。
2013-04-04
疑惑
本当かどうか、不正があるのではないかなどと疑いをもつこと。また、その気持ち。
日本語においては、何か悪いイメージになっているが、
逆に常にこの精神で生きることが正しいと言い切れる。
相手の言っていることは、本当だろうか?
この結果に不正はないのか?
と思うべきだ。
高い品質を謳うということは、
ある意味、製品すべてに疑惑の目で確認するということだ。
それゆえ、厳しいチェックをしているといえる。
疑惑に悪いイメージをもっているがために
いざ品質問題が起こった場合
「相手を信じていた」
「今まで疑惑をもつことなんて考えられない」
など、コメントする輩がいるが、それは、、、内輪揉めにすぎない。
聞いている側からすれば
「お前らの信頼より、自分らからの信頼を軽視しやがって!」
となる。
他人の行いに、常に疑惑の目で接することが
結果的に第三者からの信頼になるこの時代を強く意識しることは
もはや世界的常識と思うべきだろう。
2013-04-03
洗練
以前、
Leader
Manager
Director
について言及した。
現場責任者はLeader から Manager になれないジレンマなどを列挙したが
これはどうも、Director になろうと徹しても Management を評価されることになる
ということを実感して、次のステップを意識してこそ、今の活動が洗練されると思った。
考えてみればそうだろう。
上の立場の視点になって、今どうすべきかと考える。
そうした場合、今までの自分の経験のうえで気になるポイントがあがる。
そのポイントに対して迅速かつ自分の考えに賛同して実施できるのは
結果的にそのスキル持った、、自分になり、
自分が動いたほうが速い結論になってしまう。
上の視点に立つこと
それがある意味、今の自分の能力をより洗練させるなんて
複雑だけど、、、ある意味、、それが本当のキャリアアップと思っている。
今の自分の視点では今以上にはなれない、、ということ!
2013-04-02
義経
源義経、
判官贔屓の語源であり、
平安、鎌倉のヒーローとされる。
が、それは現代人の思い込みである。
結果の美化がとても多い。
彼は無慈悲なジェノサイダーに他ならない。
平安、鎌倉時代において
争いでの損害を最小限にする暗黙の了解が
一騎打ち
武士道
であった。
しかし、源義経は
・一騎打ちの名乗り中に、相手武将を射て殺し
・まずは馬の足を狙い、落馬した隙に殺傷
・船においては、非戦闘員である船頭狙う
ということを繰り返して、壇ノ浦に平家を沈めた。
当時の平家の思い上がりが
琵琶法師の平家物語に伝わっているので
それに基づき、義経が美化されているが、
ある意味、結構えげつないやり方だった。
今の現代人なら
「そこまでして勝ちたいか」
と問うくらいだが
義経としては
「何か問題でも?ならお前も殺そうか?」
のスタンスである意味ヒーローより、ヒールではないか!?
ヒーローがなぜヒーローなのか
その殺戮性は、、勝てばどうでもいいことというのは
人間の歴史認識なんだろうな。
これは別に源義経だけではないがね、、、
2013-04-01
証言
現代社会、証言の証拠の信憑性が失われてきている。
もっとも物的証拠とされていたものも
映像、画像も電子化、高精細より
あたかもあったの如く加工できることが容易にできる。
録音も電子化でいくらでも、、
というように技術面においての物的証拠があまりにも
価値が希薄すぎる。
そして、技術よりも危ないのは人の発言、証言だ。
最近は、個人情報保護で情報が取りづらいことと
集団心理のような思い込み推測があたかも当然のようにまかり通る。
みんなが言っているからそれは正しいという時代である。
冤罪を起こさないという社会目標を掲げながら、
みんながそういうからという理由が平気で根拠になったり、
君の言うことなんて信じられないで証拠性が失われるこの時代。
確実な証拠って実際にはなんだろうか?
というより、どんなことでも証拠にならないのであれば、、
と混沌な思いに至ったりしてしまうなあ。
2013-03-29
海鮮
海の幸については、海鮮というが
山の幸は、、、と聞かれると??となるだろう。
しかし、採れたて、朝摘みということがそれにあたる。
違和感があるかもしれないが
それは日本の食生活の変化に現代熟語が対応しきれていない、
いや、日本語は進化しなくなったといえよう。
タンパク質という概念が皆無、希薄だったことに成り立った熟語だけに
山の幸には、肉食という概念が薄い。
それゆえ、植物系のものを当てているのだ。
今となってはご馳走には肉はつきものだが、
それはつい最近のこと。
海鮮とて、鮮の字にもあるとおり、
冷蔵、運搬技術がない昔は
なかなか鮮度の高いものを口にできなかった。
それだけ、海鮮の持つ意味は高価だった。
熟語が成立したときと今の生活がかなり違う。
この事実を考えると、日本語というものは
現代日本にそぐわなくなってきているといえるのだろう。
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