よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
打ち明ける、、仲良くなる。相手に対して行う行為であるが相手から「もっと打ち明けてよ」って言われるがそれに対して、自分なりに砕けると「失礼だ」「ハラスメントです」って言われるこの時代。仲良くするのは難しい社会になっている。今の時代自分の価値観で何を言っても良くなっているのはある意味、社会として破綻しているのでは思ってしまう。
書き記された文章(特に手紙の文章)からうかがわれる趣旨。多くの人が勘違いしているのは、書いた本人の意図≠読み取り側の理解ということだ。自分ではこういう意味で書いたと思っていてもそう受け取れていないのであればその内容は読み手の理解が正になるのだがその理解をチカラで押し通すことが最近多いなあ。表現力を高める方向が圧力、武力になっているのはいかがなものか?!
同じ食材を調味料を使って味を変えること。最近出来上がった熟語といえるだろう。言葉は進化する、こうやって新しい言葉ができるが現代の熟語は基本、略語だろうな味を変化させるから 味変 と 意味を持つ漢字を集めて対して携帯電話を 携帯 と頭の言葉だけでその意味にさせてしまう。どっちも略語ではあるけど。まー、これは日本語だけではなく英語も、大文字連記の単語はISR、IMFとかも略語として新しくできた言葉だろう。人間は共通認識されると略したがるものなんだろうな。
のびのびした様子。また、(春の)のどかな様子。のんびりに近い表現なのだが漢字が重々しいのでなかなか使えない駘 は にぶい。のろい。 広くゆったりしている。駄馬を駑駘ということもある蕩 は 落ち着かないで、ゆれうごく。ゆらぐ。放蕩息子の蕩表現としては、ふわふわ、ゆらゆらと脱力した状態ある意味、、その時は癒し、解放された状態かもしれない。ある意味、憧れるがその前後にはそれなりのつらさがあると思うと駘蕩であるときを過ごすことに気が引ける。それってワーカホリックならではなのか?