これをどう捉えるか?
~次の作業への引継ぎ
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
学問・技芸などを、くり返して習うこと。
転じて、本式にする前に、それがうまく行くようにためしにすること。
昭和期は
何度も何度も体が覚えるまでその行為を繰り返し覚えさせられた。
その行為を辞めることに折檻までされた。
しかし今では
効率的、自主性、ということで
その行為を繰り返し行うことを強制しないどころか
出来なくてもいいとなっている。
思うに、繰り返し行うことで強制させた共通認識があるからこそ
価値観、秩序、そして、道徳観が統制されて
集団的生産性が維持できていた。
しかし、今の発想だと生産性どころか
コミュニケーションすらままならないことなる、、すでになっている。
効率化、個人尊重の自主性で
共通の反復演習である練習をあきらめることで
得たモノより失ったモノをよーくこの国は検証すべきではないだろうか?
他から受けた礼に対して礼を返すこと。
その礼。また、他から贈られた品物の礼に贈る品物。
今では、返礼といえばふるさと納税の対価になってしまっている。
ふるさと納税は寄付のはず。
寄付とは公のことや事業のため、金銭や品物を贈ることであり、
事業が行われることが目的ではないのか?
返礼ありきの寄付って、、等価交換、、売買ではないのか?
そうじゃないと納税、税収が集まらないとか言っているが
制度そのものと個々人の自我の高さがちょっと異常な日本に感じる。
ふるさとでもない関係のないところに寄付と言う形式で
今住んでいて行政サービスを受けている地区への納税を減らして
金を回して返礼品をもらう。
なら、住んでいる地区に満額、納税している人への返礼は?
逆に納税していない人への地域サービス低下は?
受益者負担としてそれこそ不公平では?
利益、儲けのこと。
徳利ではなく、得利ということを再確認してね。
日本だと企業収益が高いと批判される。
そんなに儲かっているなら、還元しろ!
って得意先、、とりわけ一般消費者の意見が強い。
されど、、海外を見たら
利益は株主還元であって、そうでないなら経営者解任
それだけ儲かっているのだから、従業員応募が殺到
となり、、どんどん利益をあげることが求められる。
どうも、、日本の発想はおかしいなあ。
そもそも、そのものが高い、よくないなら買わなければいいし
そうなると、値下げ、品質改良せざる負えなくなるはずなのに。
値上げ反対、利益還元にある日本人根性は
自分は何も行動せず、相手の行動をどうにかしようという
性悪なところに僕は気づいたがね。
国家・政党・団体などが正式に認めること。
これまでの公の最高位が行政である前提だった発想である。
しかし、今の社会、公認の意味は変わっていないか?
多くの人に支持されたもの
もしくは、営利団体に金銭で認められたもの
になりつつある。
個人主義が認められている以上
公認されているか、否かなど、
もうどうでもいいかもしれない。
だって、公認だからの免責がなく、
一部の人たちから認めないという意見も尊重されるとか言っているのだから。
重要なのは公認ではなく
その存在の優位性、脅威性だということを
どう訴えるか?そして、それをどう成立させて相手の対抗心を削ぐのか
そこを考えることが公認の求めるべき意義だろうな。
品物のねだん。比喩的に、ある事をするために避けられない犠牲・損害。
その犠牲、損害を数値化、社会化させたのが、代金というもの。
何かをするためには、代価は必須。
その代価が価値と等価かどうかはまた別。
どうも最近の現代人は代価の理解がない。
なんでも無償、、無償でないと怒りだすことが正当まで言い出す。
でもこの発想って、、童話、寓話における悪魔に食われる存在の典型例では?
あっ、最近の子供は童話、寓話をろくに読み聞かせ、理解せずに経年しているので
わからないのか?
それなら、、未来の子供のために、
童話、寓話の話をリアルに残酷に示すのは
ある意味、これからの人間が真の自然の摂理を理解するためには必要では。
見せかけのSDGs、自然志向ではなく、
真の意味での生存価値、社会性の必要性を理解する代価として。