2020-01-31

親切

思いやりが深く、ねんごろなこと。
好意をもって人のためにあれこれと計ってやること。
辞書の意味ではこうなのだが、、、
昨日駅で遭遇したのだが、
見ず知らずの人が
「お金がないから家に帰れない、貸してくれ」
と話しかけてきたから
「駅員に話せば?」
と答えたら
「親切ではない人だ、なんて社会だ」
と言い放たれた。

借りて返す気がない人間に何をもって親切にすればいいのか?
最悪、「親切な奴がバカなんだよ!」って開き直るから
そういう行動をしているお前が社会から親切さを無くしているんだよ。
日本は元来に真摯に悩んでいるのであれば、助けたいと思う社会だったんだよ。
親切にされた人がその恩義をまた他人を助けることの循環があったんだ。
親切されて当然ではなく、して当然だった日本なのに、
相手の思いを踏みにじることがこういう社会になっている、、、
いや僕が思うにこれこそグローバル化だと思う。
無駄に自己主義な外国文化を取り込むから、、、こうなる。
見てみたまえ、グローバルを強要してきたアメリカが
移民排斥をしている事実に、だまされ続けられていることに気づけ、日本。

2020-01-30

練度

訓練を積み重ねて得られる、熟練の程度。
これって人間のスキルなのだが、
効率化、電脳化を前面に出れば練度は否定されているに等しい。
ただ、人間のスキル評価って練度、、try & error で得られるのだが
もうすでに人間そのものの評価制度そのものが変わっている、、、破綻しているのでは?

2020-01-29

渾身

からだ全体。満身。
多くの場合、力いっぱい、自分のできる限界という意味で使う。
渾身を込めることは是か非か。
いつも全力投球で活動すべきと評価するか?
力を出し切って後続活動に支障をきたさないようにペースを保つべきか?
現代社会の個々の価値観の相異、そしてそこが評価の不満になると感じる。

2020-01-28

粗食

粗末な食物しかとらないこと。
これは美徳か貧しさか?
粗食という言葉は
貧困な時には貧しさを象徴。
飽食のときには、健康志向の現れに使われる。
なんか都合よく言っているが
食いたいときに食えることこそ、生物の幸福ではないだろうか?
そこを人間が否定し始めた段階で人間自身の自然界への冒涜
そして絶滅の兆しに感じるのは考えすぎ??


2020-01-27

気概

困難にも屈しない強い意気。気骨。はり。
やる気と言われ、昭和日本までは称賛されていたが、
個人主義、効率活動、働き方改革、により
やる気で時間を浪費すること意味を見出せないし
それをしているのでは、させられているということになっている。
やる気を示して行動していることに無駄はあるのか?
それが効率的でないという自覚があるから
効率的ということに恩恵、ありがたみを感じるものであって、
当たり前になっていることに何の感情もないどころか
それが存在しないことに怒りを他者にぶつけることになることに
社会悪を感じてならない。

気概を持ち、非効率なことも経験することが
モノの本質、ありがたみ、強いては人生の有意義を感じられるのでは?
効率化してありがたみを感じない人間を多くして
その先に何をさせるのだろうか?この社会は??

2020-01-24

開発

土地・鉱産物・水力などの天然資源を活用して、
農場・工場・住宅などをつくり、その地域の産業や交通を盛んにすること。
新しい技術や製品を実用化すること。
知恵や能力などを導きだし、活用させること。

開発の意味はいろいろとある。
今までにないものを表に出すという表現なので多義語になりやすい。
なので、その行為が開発と言われたとしても本当に開発なのか?
疑いたくなる。

これだけグローバルな社会。
見たことがないといってもどこかであるかもって思うものを
開発したって言えるかどうか?
言い切ってしまうことにもまたいろいろと問題がある。
開発という言葉に難しさを感じるのは僕くらいなのか??!

2020-01-23

善人

善良な人。
善とは何だろうか?哲学的になるが、
結論からすれば、悪であること。
善とは一方的信念、妄想であり他人からすればそれは悪そのものである。
法話的に解けば
鎌倉幕府の圧政を断罪した日蓮上人として善人と扱われている。
しかし、法と秩序を守ることこそ善の統治と考える鎌倉幕府からすれば悪である。
何をもって善なのかは、その立場によって変わるし、
善というものを掲げる人を近くで見ると
異常な狂信者、悪の権化に感じるのは僕だけではないだろうか?!

2020-01-22

素養

平素の修養によって身につけた教養や技術。
現代社会でこれを求めていいのか悪いのか?
素養がない相手にはいちいち前提から説明をしなくてはならないので
時間がもったいない。
しかし、素養がないと蔑むと、ハラスメントで訴えられる。
でも、ビジネスの世界というか、あるべき世界では
素養がない時点でビジネスかた退場させられることも多い。
だから、日々勉強これにありって思うが、、
知らないことで他人に怒りだす姿勢を容認する現代日本は
どうも落ちぶれていく姿そのもののような。

2020-01-21

肝心

とりわけ大切であること。
西洋医学がまだ浸透していない日本ではキモ、肝臓が一番重要な臓器とされてきた。
そして、魂というか人間たらしめるものは心で考えるとしていた。
つまり、心臓という臓器の心の意味は後付けに近いいうべきである。
肉体の中心、肝、人間の精神の拠り所としての心、その二つが一番という意味で
肝心という言葉になっている。
肝心なこと、肝心要と使われてきたが、最近聞かないなあ。
それは西洋医学の普及のせいか?
いや、肝心なものの定義が損なわれている昨今だからこそ、
つかわなくなったのか?
それとも、肝も心も人間たらしめるものではなく、
すでに肉体を逸脱した電脳を認め始めたから、、なんてね。

2020-01-20

使熟

読みとしては、つかいこなす。
あるモノを十分に活用できている状態をいう。
僕にとって現代人は本当に愚行極まりない。
無知な者が一定の理解で使っているレベルを基軸に
それより出来ないものを不器用、
そして、それ以上にいろいろと活用しているものをマニア、オタクと卑下する。
無知な発想を基準に他人に無礼な発言を容認するのはどうだろうか?
特に現代日本でのこの発想が
モノづくり能力の低下、生産性の欠如の日本を生み出したのでは?

うわべだけの機能理解でモノを使い、
また新しい機能のうわべだけで買い替える。
経済循環的にはいいかもしれないが、それを買う購買力があるのか
そしてその機能をうわべだけでなく
使いこなすことで本当は得られる生産性見合い結果に目をつぶることは?
いろいろと現代人の買い物価値観に疑問を感じてしまう。

2020-01-17

雑学

興味本位で面白さを重視しているため、
ひとつひとつは意味的なまとまりをもった知識であるが、
集められた知識はお互いに関連性が希薄な事柄で、
全体としてみて系統立っていないものを指す。

確かにそうだが、
雑学知識なくただ自分の得意な専門的なことを一方的話している人間が多すぎる。
専門となると、ちょっとでも違う領域、方向性だと拒否反応を起こすこともしばしば。
話すこと、ビジネスをするということは相手ありきで自分の独り舞台では
結果にならないという自覚がない。
雑学はある意味、相手、自分の得意なことではないことが多い。
しかし、互いに得意ではないということが共通点になり、共感性を得やすい。
そのために雑学の会話は本題と違っても会話をスムーズにさせる潤滑剤になる。

雑学を蓄えて、会話をうまく進める。
その意味で僕はいろいろと蓄えていたら、
雑学からその分野が得意になったり
雑学の話をしすぎて本来の会話内容がおろそかになったり
とまー弊害はあるけど、
雑学のおかげで会話を続けられるというに関してはなかなかの自覚はある。

2020-01-16

民放

民間放送(みんかんほうそう)の略で
民間の資本によって設立された放送事業者によって行われる放送のこと。
現在、「テレビがつまらない」って言われている。
これって日本の民放ビジネスモデルの崩壊っていうことだといえる。
日本の民放とりわけ地上波放送は
世界で稀に見る受益者負担ではないビジネスモデルである。
テレビ画面は広告塔と位置付けて
スポンサー企業からそのテレビコンテンツの制作費を出させ
その合間にCMを入れることで成り立っている。
視聴者からすれば、無料でテレビコンテンツが観れていたという
恩恵がwin-win-winとされてきた。

しかし、これは放送局、企業、視聴者の思いがづれ始めると取り返しがつかない。
視聴者:みたいコンテンツがないので観ない
企業 :視聴者が観ないのならば広告塔の機能がないので支払わない
放送局:金がないから、いいコンテンツを作れない
の悪循環に入ると抜け出せない。
今はある意味、その入り口に日本の民放は立っている。
そして、これから受益者負担の価値観が認められたり、
観たい視聴者と作る放送局が直接成約することがグローバル的、DX的に
容易になったので、企業の広告塔の意味合いはなくなっていくだろう。
そうなると、日本における民放という概念はなくなるだろう。

思うに日本の民放ビジネスモデルはおかしかった。
一方的な放送局の価値観に企業、視聴者も従ってきたが
双方向で視聴者からの見解を言えるようなDXの進化は
放送倫理を再認識させて、そもそも放送局の思い込みが
狂っていたって証明させているだけのような。



2020-01-15

補正

補って、ぐあいの悪い所を直すこと。
補っているということは主従で言えば、従側である。
しかし、現代社会はどうだろうか?
本来あるべき正常に合わせるために補正している行為こそが主になり
~この補正になぜ周りが合わせないのだ
~そもそも正常では動かないからこそ補正しているのであって、補正こそ正常であるべき
という見解が跋扈している。

距離感で例えるなら
はじめは正常への方向性に対して、たった1°のづれのつもりだった。
1mでは、d=1*sin1°=1*0.0175=0.0175(m)
1kmでは、17.5(m)
10kmでは、175(m)
100kmでは、1,750(m)
もづれてくる。1kmも離れると
すでに100kmの進んできた実績から
自分たちのほうが正しいとなるのが人間の性なんだろうな。

常に正しいほうに修正するとしても補正したことが正解と思っている以上
正常への回帰は無理ということが人間社会なんだろうな。


2020-01-14

予測

一般に、あるデータに基づいて、
未来における実現すると考えられる特定の変数の値を想定すること。
「未来予測に基づいてリスク回避しよう」
ということは論理矛盾していると気づくだろうか?
もし予測どおりリスク回避できていたら、
そのとき言われるのは
「未来予測通りにならなかったな」
予測が否定される。
だって、リスク回避されたのリスクそのものが
わからない状況になっているので、当事者としては目の当たりしていないのだから
それは当たっていないということになる。
逆にリスク回避をしたいのに、予測通りになった場合は
リスク回避しても無駄なことだったのに、
「未来予測したのに、なぜリスク回避できなかったんだ」
と罵られる。

予測することは損でしかない。
それに気づかずに、毎年あたらない予測にお金をかけたり
胸を張って計算されたビジネスということに
非科学的な占いビジネスと何が違うのか?問いたい。

2020-01-10

公正

かたよりがなく正当なこと。
はっきりしていて正しいこと。

~公正な判断をしてほしい
~公正な裁判を行ってほしい
って発言する人間の言う公正とは
自分に都合のいい、恣意的利己主義なことであり、
自分に都合の悪いことを不正と騒ぐ。
そう、公正という人ほど公正とはかけ離れている事実が人間社会の本質だ。
そもそも、公正なんてものはない。
その時の政治権力、民意、に左右されるものであり、
ある意味、左右されている現時点のトレンドが公正となり、
自己中心的な価値観はこの定義からは不正と言えるのではないだろうか?!

2020-01-09

習慣

ある事が繰り返し行われた結果、その事がしきたりになること。
いわゆるルーティン。
ルーティンを軽んじなかれ。
ルーティンは知らず知らずに効率化、最適化された動作になっている。
そして、その行為を好き嫌いなく行うことをしないとなんか気持ち悪くなる。
このブログとて、文章が苦手だったから始めたようなもの。
うまくなったかどうか別として
書くことで他人でガタガタ言われる筋合いはないっていう自信にはなっている。
それが習慣の結果かな?

2020-01-08

国内

自国内での見解。
日本では日本国土内は範疇となる。
グローバル化している昨今、他者比較をするどころか
日本国内においても、アメリカ、中国基準の見解を押し通す輩が多い。
しかし、日本語、英語、中国語に
「郷に入っては郷に従え」
When in Rome、do as the Romans do.
『入郷而従郷、入俗而随俗』
という諺がそれぞれの母国語にある。
その諺通りにふるまうべきであり、
日本では日本の法律に従うべきだし、地域ルールを尊重すべきである。
もしできないのであれば、出国すべきもしくは国土民と接するべきではない。
そもそも、自国民でありながら、出国もせずに文句を言っている輩は
罰するか死するべきと思うことは社会秩序を重んじると言えないのはなぜか?
って国民に問いたい。

2020-01-07

理論

個々ばらばらの事柄を法則的・統一的に説明するため、
また認識を発展させるために、筋道をつけて組み立てたもの。

理論は理論であって実践しているものではない。
ビジネスにおいても
PDCA(OODA)
R.A.P.I.D
など新たな行動理論がWEBや書面を騒がすが
その理論を理論のまま、偉そうに語っていることに意味を感じない。
自己ではその理論を理解して
その理論をテンプレートにして、実践を行い
その結果でもって、実は理論を応用しましたということが
本当の理論の理解、伝播になるのでは?
書籍を読むことが多い時期だっただけに
読めば読むほど、理論の虚しさに感じてしまった。

2020-01-06

賽銭

神仏に参詣(さんけい)してあげる金。
現在、賽銭の電子通貨について無礼と声を上げる輩の存在が目に障る。
言い分として、そんな不浄な賽銭で神仏に失礼ではないかっと。
バカか、、、
そもそも、賽銭という行為自体が不浄であった。
本来なら、五穀豊穣の結果して青果、穀物を供物をささげていたが
社会構造の変化で農家ではないものや供物の物理的大きさや賞味期限から
供物ではないものをささげることに変わり、砂糖などがその例であった。
その後、、商業、市場の発達から人間の手で汚れた不浄な存在であるが、
汎用性の高いことで通貨を賽銭ということで認めて今に至る。
賽銭も不浄であるが、価値観が変わってきた一環である。
そうなると、電子通貨もあるべき姿である。
現状がそのものが不浄である事実に気づかず
自分が理解できないものを不浄として
紙に成り代わり失礼と言う発言、そのモノが不遜の極みではないだろうか。