目標を掲げ、そこに到達するために邁進すること。
現代社会の結果主義において
努力は評価対象から外れている。
できるだけ、効率化に基づき結果を出せばいい。
極論で言ってしまえば
大会で優勝を狙いたいのなら
評価委員を買収して、優勝というステータスを手にいればいい。
その結果に向って、習練すること自体時間の無駄になってきている。
仮に、時間を使ってこの結果を手に入れたとしても
やれ、そこまでして行うべきものか?
やれ、結局、何かを使ったに決まっている
と庶民に要らぬことを言われるだけでもあり、その抗弁の時間もまた無駄である。
悲しいかな、この事実は
平成以降の若者の中では疑いのない認識なのだが
戦後、昭和の価値観ではそれを道徳心で否定している。
現時点、未だ昭和の価値観が権力を占めているので
努力への否定はできない。
しかし、この先、数十年後には努力という価値観はなくなるといえるだろう。
???
アスリートなどが行っている練習は努力ではないのか!
って言い張るが、それは努力ではなく
計画計算(プログラム)に基づいた
人体改造手法(インプットファンクション)を
生体力学(フィジカル)の乗っ取って施していてるのであり
それを努力と言ってしまうと、計算結果の確からしさを否定してしまう
高度技術発展への弊害でしかないという視点に変えていくべきだろうな。
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