2018-09-28

念願

ひたすら望み願うこと。
前に記述した’念仏’と同じ、念の字が入っている。
人間はひたすら思い続けるということを念じるという。
念じれば通じるというが、
ずっとそのことばかり思っているのだから、
他のことより敏感にそしてポジティブに感じざる負えないだろう。
それゆえ、、、念じたものは、、、という思い込みに人間は傾いてしまうんだろうな。

2018-09-27

念仏

仏の姿・徳を心に思い浮かべること。
転じて、仏の名を唱えること、
特に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えること。
その意味も転じて、神頼みな状態といえる。
多神教を認める日本でも、やはり仏がメインと感じる表現だ。
仏を信じるかどうかというより、土着の表現になっていることは
信仰より習慣になっている。
信仰の自由はあるとしても、習慣からの脱却は難しい日本のような。
「念仏でも唱えていろ!」
「自分は仏教徒ではないので」
という表現ではいろいろと問題になりやすい風潮があるよね。

2018-09-26

無心

邪念が無いこと。
いい意味?悪い意味?
無心と書くとなんか、ピュアなイメージ。
でも、心無いと書くと、冷酷なイメージ。
同じ文字を使っているのに。
この難しさは異国の言語体系では理解しづらいだろうし、
こういう捉え方の語族、民族だから、なかなか相手に意思が伝わりづらいんだろうな。

2018-09-25

審査

詳しく調べて、採否・適否・優劣などを決めること。
この時代、審査の価値は絶対から批判になりつつある。
審査活動をした結果に対して、その審査を行った者が権威的や偏見だと言い出し
審査を否定することが当然になっている。
これまでの日本の右に倣え、自己主張するなっていう価値観からしたら
正反対の概念だ。
それを自己主張の表れだと好感するような話もあるが
価値観の多様化は秩序を崩壊させることになっている。
一定の判断基準をもった審査という活動に価値を見出さないということは
ある意味、無秩序そのものと言えないか?

2018-09-21

立場

その人が置かれている、地位・境遇・条件。
日本のビジネスの社会では、支払う側が優位のはずである。
しかし、優位性を得るために支払う側うを劣性にすることも重要である。
需要と供給の関係を利用して
「別にあなたでなくても引き合いはあるので、」
とか、専門的知識をもって‘先生‘といわれる存在をもとに
「私にお願いしたいなら」
という感じで、支払う側をひれ伏せたうえで支払いをさせることもある。

そんなビジネスあり得ない、
いつかしっぺ返しをくらうっていう人がいるだろう。
しかし、そのしっぺ返しが今行われている。
日本の支払い側が優位であったことそのものがおかしかったのだ。
等価交換から考えて、通貨、紙幣が優位であること自体が問題だった。
日本の商習慣というか売買マインド、根本的に変えないとならないのでは?

2018-09-20

電視

テレビのこと。
中国語でそういうと今はなっているが、
日本においてもテレビが一般家庭に普及されるまでは
街頭に置かれたテレビは街頭電視台って呼ばれていた。
戦後日本において、テレビは日本のメディアの中心だったといえる。
しかし、21世紀になるあたりからインターネットの普及で
テレビの存在価値が問われるようになっている。
テレビがすぐになくなることはないだろうが、
ラジオ、新聞と同じように主流メディアから衰退していくことになるだろう。
メディアインターフェイスの栄枯盛衰って本当に寿命が短いって感じてしまう。


2018-09-19

副業

本業のほかにする職業。
働き方改革で副業を認めるように政府は煽っているが多くの企業は認めない。
理由は
「過重労働で本業に支障を来す」
とのこと。
ということは企業側は限界まで働かせる気が満々。
しかし従業員が副業をしたい一番の理由は
「もっと稼ぎたいから」
だそうだ。
限界まで働かさせられても、それに見合う十分稼ぎをえられないということだ。
思うに、、、非正規雇用を正規雇用にと言いながら副業禁止で
十分に稼げないのが実情のようで、、
いっそ、副業の考え方、正規雇用の考え方を辞めるべきだと思う。

正規雇用というものを辞めて
社会人はみな個人事業主として
市場価格で自分を売り込むようにしないとダメ、、、、
でもこれがグローバルスタンダードではないか?
なんか日本人の考え方が異常すぎる。

2018-09-18

幽世

永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。
常世、隠世ともにかくりよって読む。
科学が進化した昨今、死後の世界というものに否定的だ。
しかし信教、宗教の多くは現世ではなく、
幽世の世界を前提にしているものばかりであり
その信仰の自由を認めている現代社会は死後の世界を肯定しているともいえる。
基本、現代技術は生きている、脳と心臓との連動活動を生存を認めているが
AIの発達、そして人間そのものの脳を電脳化できるとなりつつあるこれから。
幽世ってもしかしたら、肉体の軛を解放された電脳の世界がそれになるのかな?

2018-09-14

連関

ある事と他の事とが、重なり合ったり、呼応したりして接続していること。
漢字を逆にした
連関と関連の違いは?
辞書などのそれぞれの人間の思いで違いを言い出している。
でも、語彙としての意味に差があるとは到底思えない。
あるとしたら、関連性、、というが連関性とは言わない。
言い回しの違いなら感じられる。

言葉は語彙の違い、用例での違いがある。
でもそれも生きている人間の思いで変わるものだから
違いがあるという定義は難しい。

2018-09-13

辟易

嫌になること。
厭世家ゆえ、いろいろと辟易している。
しかし、何から何まで辟易しているわけではない、、と思っていた。
しかし、好きなコト、モノに対しても長い時間関わっていると辟易し始めるのは
性分か年か、、それとも、、、そんな自分にも辟易してしまう。

2018-09-12

勤勉

仕事や勉強に一所懸命に励むこと。
勤勉であることはよいこととされるが、
能力主義である以上、結果を出すことが評価される。
そうなると、勤勉であることは評価対象ではなくなるのはだが
社会認識はわがままであり、
結果を出しても勤勉でない人
勤勉でも結果を出していない人
への評価は同じように認めないことが多い。
と考えると、人間は他人を都合よく考え、そしてなかなか認めないということか、、

2018-09-11

猖獗

悪い事がはびこること。
あまり聞かないが、使われるとしたら疾病に使われることが多い。
ただ思う。現代社会はストレスという病魔が猖獗しているのではないかと。
いろいろな意味で、現代社会って自分にとって都合が悪い、、
猖獗していると思うことがある意味正常な精神状態なのかなあ?

2018-09-10

外聞

世間へのきこえ。評判。うわさ。
外聞を評価と考える輩が多いがそれは大きな間違いだ。
SNSや巷の声で批判されても、
そのモノが評価されて市場的に儲かっていればそれが評価だ。
確かに外聞の結果で評価が下がる、直結しているということを否定できないが
その外聞に左右されるモノであるということはそれは一過性でしかない。
一過性から常用にすることもまた評価だと思う。
一過性かつ外聞に踊らされている現代社会において
技術継承、伝統工芸が成り立つわけないのに、それを求める社会構造。
根本的に求めるモノを達成させるために生きている輩を統制することが前提って
なぜ現代人は気づかないのかなあ?

2018-09-07

有職

公家・武家などの行事、儀式、官職等に関係する知識と、それに詳しい者。
有職読みという表現を知っているだろうか?
いろいろなこじつけをいいだすが、
日本人の名前を訓読みすると、間違えてしまうリスクなどから
音読みすることで敬意を示しているという意味らしい。
伊藤博文 ハクブン
源頼光  ライコウ
これって、日本独特との表現といえる。
外来語である漢字に自国の発音を当てた訓読み。
しかし、その読み方が日本人同士でできないので
元来の中国からの漢字の音で読んでもOKという論理。

日本人というアイデンティティを捨てることで
日本人らしい発想になるのは面白い。


2018-09-06

思込

思い込み、、
多くの人間が勘違いしているのは
自分自身の思い込みであり、他人へは意味がないということだ。
「俺はそんなことしていない」
言い出しても、周りがそうだと言えば、それは自分がそう思い込んでいるだけで
世間の認識が上位であるということだ。
例をあげれば
自分は怒ったことないが言い張るが、まわりはいつも怒っていると思っている。
当人は怒っているのではなく、注意してあげているという。
それは当人の思い込みで、周りからすれば怒っている以外何物でもない。
それについて、周りが思い込んでいるって言い張るからコミュ症が発生し、
そして当人がコミュ症って自覚がない典型例になっているといえる。

2018-09-05

文法

文章を作る上のきまり。
その決まりに基づいて、文章を書けば相手に通じるから決まりのはずである。
しかし、現代社会、内内の言葉が正しい思うことや勝手な言い回しを言い張る輩のために
こちらが正しい文法に基づく表現をしていても通じない。
その自分たちの思い込みを日本語って言われると、、
文章を書くほうが悪いと言われることが多いが、
読み手の偏見や傲慢さが公用である文法を壊している事実に日本人は気づいているだろうか?

2018-09-04

遠来

遠方から来ること。
交通機関の進化で遠方の定義が難しい。
思うに物理的距離より、到着までの時間が遠方とみなされつつある。
どんなに遠くても高速移動手段があれば近いとみなされ
相対的に近いが、交通機関が発展していないところは到着までの時間から遠いと感じる。
距離で遠近を表せないようになっていることに人類の進化を感じる。

2018-09-03

自責

自分で自分の過ちを責めること。
実は日本では美徳だったが、グローバル化で悪徳になった価値観。
自分で自分の過ちを認めることが、自己啓発、そして高い品質につながっていた。
しかし、現代社会はそれをつるし上げ、あわよくば損害賠償にするようになった。
過失を決して認めないことが、個々の尊厳を下げ、社会全体の品質劣化につながっているとなぜ庶民は気づかないの?って思うばかりだよ。