2025-05-30
査察
2025-05-29
揚足
つまり、不安定な状態を指す。
それが転じて、曖昧な表現に対しても慣用的に当てられ
人の言いまちがいや言葉じりをとらえて非難したり、からかったりする
揚足を取るになっている。
討論、議論という世界では
揚足ばかり取っている印象しかない。
それが民主主義っていうが
相手の言っていることの揚足ばかりをとっているだけで
前向きな発言にはなっていないことに
討論、議論など意味はないと感じてならない。
言葉遊びが平和か?
行動した結果を推進、改善することに言葉をつかうべきであり
トップ会議(取締役会、議会)無視している組織が強いことばかりじゃないか。
2025-05-28
龍潜
自分にはもっとあるべき地位につくべきなのに
それがされていない。もっと社会は自分を認めるべきだ。
これがストレスで問題なら、下剋上、殺人OKにすれば
基本、社会なんてものは一部の特権階級のために存在している。
2025-05-27
投込
投げ込む。
日本の表現だと自分の意思をします行為は
投げる
という言葉に通じる。
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投げ銭
と自分の意思を相手に伝えることは
投げるというのか、、
なんか、日本語の感覚がわかる。
言葉のキャッチボールという日本人独特の価値観なんだろうな。
ある意味、意思を投げ合うから
相手の会話になっていないのでは?
debateを討論とあたかも投げ合う殺し合いに感じる当て字からして
日本人は自分の意思は相手への押し込む投げるものという認識があるから
debateもうまくならないのでは?
話し合いなどが日本では非生産性な行為になるのは
日本という国民性を感じる。
別に悪いことではなく、だからこそって思っていいかも。
「背中で語れ」って表現もあるのだから。
無理にバカな外国価値観をグローバルとか言って受け入れることよりは。
2025-05-26
2025-05-23
供述
被告人、被疑者、証人などが、
裁判官や捜査官に対し、ある事実について述べること
法治国家では正しい裁きを行うためには必要なことかもしれない。
それがあるべき法治国家であれば。
今の社会、法治国家って言えるのか?
民意の名のもとに法律を後付けで変えてしまうことが平気なるし
そもそも、技術進化のスピードに、その運用、制度を
為政者がついてこれないため、法制度が間に合わないどころか
足かせになるこの世で。
供述をしたところで
それを理解できない、しようとしない権力側の姿勢に
事実を受け止められることが難しいのでは?
どうもいろいろと限界を感じる今の政治制度。
結局、マキャベリのいう衆愚の末路ではないか今は。
2025-05-22
2025-05-21
2025-05-20
2025-05-19
案思
作の構想、プロット。
どうやら、こんな言葉はそもそも辞書にないようで、
漢文の
案其言而思之
の抜粋漢字で作った、、それも今の時代劇ドラマ側の創作語のようだ。
勝手に抜粋漢字で熟語を作り出すなんて、、
って言われるかおもしれないが、現在の元号って
上記のように漢文を原点に
平成、令和って作られているのであながち勝手とは言いづらい。
熟語を新たに創設したうえで
それを市井に広めることで言葉は進化するものかもね。
英語だって、、net って言ったら、網、蜘蛛の巣って言わずに
インターネットとまず思い浮かべるような社会に認識に変わっているのだから
言葉の定義は広がったもの勝ちだね。
2025-05-16
2025-05-15
2025-05-14
2025-05-13
2025-05-12
麦粉
小麦粉を代表する麦から製粉したもの。
今、世界中の炭水化物摂取の多くは麦粉だろう。
日本では米だが、今の米騒動では
麦粉への需要は高いのでは。
パン、麺、など幅広い調理、料理があるので。
ちょっと思った、
戦後の日本ではアメリカからの小麦粉を メリケン粉 って呼んでいた。
それで戦後復興を乗り越えた。
今、またメリケン粉の輸入が関税でいろいろと言われる。
いっそ、メリケン粉を前提にしてみたら?
メリケン粉 日本に馴染みのある漢字表記で 米粉 !!???
米粉は米粉があるので、紛らわしい。
でもこれって、なんでも欧米に上書きされるので
仕方ないかなあ、、って思ってしまう。
今、今までの日本であるならね。
2025-05-09
2025-05-08
2025-05-07
全然
まるっきり。
日本語において、呼応の副詞であり、
全然~ない に係るのが正しい日本語。
正しい日本語 VS 言葉は時代とともに変わる
であり、全然OKも使われる、日本語の混沌時代になっている。
そして、思う。
全然~ない の呼応の副詞はすでに機能していないのではない。
「全然違う」
「全然わからない」
などを口にしている輩が使っている真意は
事実認定をしたくない傲慢さの自己主張でしかなく
本来の全然ではなく、その通りを認めないだけの用例になっている。
否定の否定をしていることでより
その人間の醜さを強調している表現になっているだけに
日本語のおかしさを物語っているなあ。