いっしょに連れだって道を行くこと。
最近は悪い意味での使い方が多い。
でも本来は同じ道を歩む、同志、強いては婚姻の意味でもあった。
正しい日本語というが、なんか日本語がどんどんむなしくなっていることを
この言葉から感じることがある。
2016-01-28
2016-01-27
2016-01-26
2016-01-25
2016-01-22
2016-01-21
2016-01-20
2016-01-19
2016-01-18
勇敢
勇気があり、危険や困難を恐れないこと。
蛮勇つまり
理非を考えず、むやみやたらに発揮する勇気。向こう見ずの勇気 とは違うという。。
バカな発想だ。
そもそも、勇気という概念が現代社会は薄れている。
効率化、批判体質なこの現代で
あえてリスクを取ることに対して何とも愚かなことをしているか。
そのリスクに対して、
失敗すれば、それは予見できたと言い出し
成功すれば、そもそも成功するものだったと後付立証を始める。
勇敢とは程遠い発想で、古来日本なら卑怯そのものである。
こんな日本での勇敢な行為を蛮勇って批判するバカを罰するようにしないと
どんどん国家的、民族的価値が薄れてしまうだろうな。
蛮勇つまり
理非を考えず、むやみやたらに発揮する勇気。向こう見ずの勇気 とは違うという。。
バカな発想だ。
そもそも、勇気という概念が現代社会は薄れている。
効率化、批判体質なこの現代で
あえてリスクを取ることに対して何とも愚かなことをしているか。
そのリスクに対して、
失敗すれば、それは予見できたと言い出し
成功すれば、そもそも成功するものだったと後付立証を始める。
勇敢とは程遠い発想で、古来日本なら卑怯そのものである。
こんな日本での勇敢な行為を蛮勇って批判するバカを罰するようにしないと
どんどん国家的、民族的価値が薄れてしまうだろうな。
2016-01-15
2016-01-14
2016-01-13
悪事
悪い行い。
一言で言えば、こうだが、実際問題。
悪事とは何か?
結論から言えば、、他人の行いといえる。
ある婆が
「何よ、なんか私が悪いことしているみたいじゃない」
これが人間の本質であり、
自分の行動は基本的に、善事であり、悪事とは他人の行いという認識だ。
そして、他人の行いを悪事というからこそ、その行いが自分に当てはめれば
自分も悪事と認めるのだが、基本的に自分は正しいと思い込むのが、人間の本能といえる。
現代社会、上記の婆を責めると責めているほうが悪事ととらえかねない。
あたかも悪事を行っている婆が活かされることなる。
こういう社会をどう正すべきか、言葉言ってもわからないのだから、、そうだよね。
一言で言えば、こうだが、実際問題。
悪事とは何か?
結論から言えば、、他人の行いといえる。
ある婆が
「何よ、なんか私が悪いことしているみたいじゃない」
これが人間の本質であり、
自分の行動は基本的に、善事であり、悪事とは他人の行いという認識だ。
そして、他人の行いを悪事というからこそ、その行いが自分に当てはめれば
自分も悪事と認めるのだが、基本的に自分は正しいと思い込むのが、人間の本能といえる。
現代社会、上記の婆を責めると責めているほうが悪事ととらえかねない。
あたかも悪事を行っている婆が活かされることなる。
こういう社会をどう正すべきか、言葉言ってもわからないのだから、、そうだよね。
2016-01-12
2016-01-08
2016-01-07
双肩
両方のかた。
物をになう場所であることから、責任・任務を負う所にもたとえる。
最近のビジネスの仕方だと、個人に責任を負わせるようなことはせず
専門性を求めて、分担を強いる。
僕はこれがダメだと思う。
すべての責任を自ら背負うからこそ、
真剣さ、
全体把握、
最適化感覚、
が養われるのではないか?
責任を明確にするといいながら、
部分部分に切り分けして責任が逆に見えなくなっている。
「君の双肩にかかっている」
と言われるだけでなく、言えるように部下、若者を育成しなくてはならないと強く思う。
それが、成功のチャンスと確信までしているからね。
物をになう場所であることから、責任・任務を負う所にもたとえる。
最近のビジネスの仕方だと、個人に責任を負わせるようなことはせず
専門性を求めて、分担を強いる。
僕はこれがダメだと思う。
すべての責任を自ら背負うからこそ、
真剣さ、
全体把握、
最適化感覚、
が養われるのではないか?
責任を明確にするといいながら、
部分部分に切り分けして責任が逆に見えなくなっている。
「君の双肩にかかっている」
と言われるだけでなく、言えるように部下、若者を育成しなくてはならないと強く思う。
それが、成功のチャンスと確信までしているからね。
2016-01-06
2016-01-05
民泊
自分の住居を他人に貸して泊まらせること。
忘れてはいけないのは、これは日本では違法である。
旅館業法というものがある。
その定義に従った届け出をしていないこともある。
それにもっと忘れてはいけないのは
日本には、民宿という概念もある。
旅館業法に基づき簡易宿所営業の許可を得た
ある意味、昔からの民泊の元祖である。
バカみたいに外国人が多く来たからとか
国際的にはという言葉で踊らされて
違法を適法みたいに扱っているが、
それって、日本国家とは統制や治安を維持できるのか?!
これまで治安がいいとされてきた日本、
それは、くだらない国際化ではなく、日本古来のやり方を
従順に行ってきたからであり、今では治安がいいとはとても言えないというか
それを国際化と思うつまらない国になり下がったものである。
忘れてはいけないのは、これは日本では違法である。
旅館業法というものがある。
その定義に従った届け出をしていないこともある。
それにもっと忘れてはいけないのは
日本には、民宿という概念もある。
旅館業法に基づき簡易宿所営業の許可を得た
ある意味、昔からの民泊の元祖である。
バカみたいに外国人が多く来たからとか
国際的にはという言葉で踊らされて
違法を適法みたいに扱っているが、
それって、日本国家とは統制や治安を維持できるのか?!
これまで治安がいいとされてきた日本、
それは、くだらない国際化ではなく、日本古来のやり方を
従順に行ってきたからであり、今では治安がいいとはとても言えないというか
それを国際化と思うつまらない国になり下がったものである。
2016-01-04
来迎
仏や神がこの世におりて来ること。
なんか最近の庶民は、ご来光で初日の出をありがたがるが
本来は、ご来迎というものを信仰するものであったのだが、、
日本の場合、信仰が儀礼、そして流行りになってしまう傾向があり、
これは一神教、もしくは信仰心の強い国からすれば
なんとも罰当たりな国に感じられてしまう。
ご来迎の意味、有難さを深く理解していない国において
信仰の自由という権利は意味があるのだろうか?
進化や流行りで踊らされている日本に
道徳、信仰というものを見なすことができないことは
グローバルなんてことを口にすべきではないって強く言いたい。
なんか最近の庶民は、ご来光で初日の出をありがたがるが
本来は、ご来迎というものを信仰するものであったのだが、、
日本の場合、信仰が儀礼、そして流行りになってしまう傾向があり、
これは一神教、もしくは信仰心の強い国からすれば
なんとも罰当たりな国に感じられてしまう。
ご来迎の意味、有難さを深く理解していない国において
信仰の自由という権利は意味があるのだろうか?
進化や流行りで踊らされている日本に
道徳、信仰というものを見なすことができないことは
グローバルなんてことを口にすべきではないって強く言いたい。
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