2000年以前であれば、カメラ小僧とか言われる人しか意識しない言葉だったが
2001年写メの登場からスマートフォンへのデジタルカメラ機能により
一般的な概念になってきた。
思うにオタクと言われるプロ志向の技術は
はじめは批判、卑下されるが
それが普及すると今まで批判していた者共がなんか得意げに話し出すことが
普及させたのは自分たち、認めてやった感を感じる。
マジョリティーによる弊害を感じる社会だなあって。
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
集まりやイベントを取りまとめる役割の人
どうも、日本における幹事の地位が低すぎる。
幹事になる以上、それなりの権限や裁量をもらえなければやってられるか
幹事なんだからって
・雑務
・各位の調整
を当たり前のようにさせられる。
ある意味、幹事は罰ゲームになっている。
これって、、今の社会の偉くなりたくないと同じこと。
社会的秩序、決定の意向を
個人に任せている今はもはや社会ではない
偉く成りたがらないではなく
偉くなる意味がないからだ。
社会性を取り戻したいなら
権力の意義と
個人をどんどん不自由にすべきだ。
不自由だからこそ、人間は新しいことを思いつくわけで
自由、放漫な社会に未来はないことになぜ現代人は理解できないのか?!
難しい言葉。
新ビジネス、とりわけ技術系の仕事の多くは
外国、、欧米の技術を取り入れるから
その現地語、、主に英語をそのまま取り入れることになっている。
明治期と違い、その英語を西修、夏目漱石のような逸材が
和訳を当ててくれるわけではないからそのままの英語が日本で使われる。
なので、耳慣れない難語が飛び交うのが今のビジネスの最前線かな?
ただ、新興国ならそれでいいのだが
一応、G7の国家がそれでいいのか?
公用語を英語とかいう前に
日本語、、というか日本の技術を盛り上げること
もっと言えば、覇権を取る勢いを持つべきでは?
どうせ、外国の技術にというのはありだが
その技術はもう日本のものという搾取、略奪することも
そう悪くないビジネス発想ではないか?
そうしないと、技術立国日本の看板が透けて見えるぞ。
持ち上げること、上に引き上げることから派生して
今は、議論などの場に問題、議題を持ち出すこと
提起することを重要といわれる建前と面倒なことするなの本音が
日本人だろうな。
そもそも議論の場という概念そのものが
権力の象徴で、その場を持っていることこそが
自分の存在意義になっている。
そこに仕事、、場合によっては自分の地位を脅かすものを持ち込むことは
煙たがられるだけになっている。
こんな価値観の日本なのだから
民主主義なんてものは根付かないもの。
未だにずっと一党独裁に近いのが日本ではないか!
共産党と歴史的に何が違うのか?
って思う。こういう問題提起もまた無駄なのだから。
むやみやたらに信ずること。
思うに、20世紀は妄信の時代だった。
新聞、ラジオ、テレビというマスメディアの登場で
一方的に大量の情報を流し込み
それを真に受ける民衆がそれに動かされた時代
だから、大きな大戦ばかりおき
それを扇動するプロパガンダで妄信させた。
対して、21世紀は批判の時代。
インターネット、それに派生するSNSにより
登場する情報を目の敵のように批判することばかり
炎上なんて言葉もそれだ。
それゆえ、民衆が大きく動くことはないが
小競り合いが多発してばかり。
みんな仲良くは20世紀の妄信価値観
個々の尊重は21世紀の批判価値観
に感じるが、、、
21世紀もまだ四半分、、これからどうなるか?
世俗的な生活を離れ、人里離れた場所でひっそりと暮らすこと。
気持ち、隠遁したいようで、したくないような思い。
今の社会のむさくるしさからは離れたいが
何もつながっていないとライフラインなどがなくなるリスクが高い。
まー、社会というものは矛盾を抱えているものだ。
しかし、COVID前からオリンピック招致により都市混雑回避の理由で
リモートワークが騒がれ、悲しいかな、COVID蔓延で普及した
リモートワークの日常化はかなりの社会改善だ。
俗世ではないが、無駄なコミュニケーションがそがれ
勤務時間に拘束されない自由なアイデア検討時間は
ある意味、半隠遁生活に近い。
そもそも、コミュニケーションを重視するとするなら
ノーベル賞などのアイデアを個人に出すのは矛盾しないか?
そのチームを評しないことから、コミュニケーションではなく
他に隔離された個人、、俗世と隔離した感覚ではないのか?
世界基準で社会活動というものに疑問を感じる。
人や物に利益や幸いをもたらすこと。また、そのもの。おかげ。恵み。恩恵
自分に良い気持ちに働いたすべてのことをまとめて。
恩沢の沢は、、たくさんの沢山の沢なので、いっぱいの意味。
人間はなかなか恩沢を感じられない。
もし感じるのは、環境が変わったときかな?
自分の身の回りにあったものが実は自分をよくしていた。
そう感じるのはなくなったときかな。
ではなぜ、そうなるか?
答えは簡単、人間は上昇志向で欲深いからだ。
~もっとよくなりたい
~自分はもっと恵まれるべきだ
となっているから。
そう感じさせる上昇志向って、、もう辞めるべきではって思うのは
どうせまた間違いって言われるのか、、
おおよその見積りをすること。精密にではなく、ざっと出す計算
この数字で動く場合のリスクが多すぎる社会になっている。
概算なんだから、ぶれて当たり前と思う
概算から大きく変わるわけがないと思う
の対立がずっと続く。
物価上昇を前提にしている社会において
概算から数字があがるのは必然に感じるが
超規模案件において
今の価格帯で未来の概算なのに、
今の価格帯前提で発注するしてくるのは
自分たちの価値が上がらないと思っていることと
変わらないのだが、、、
そして、ねちねちと
概算からオーバーすると
概算の算出が下手、無能と言い出すし
逆に概算より少なく抑えた場合は
もっと安くできなかったのか言い出す。
ぼったくりされたくない思いはわかるが
概算に対して、市場動向、その価値を意識しないで
文句ばかりを言うのはビジネスとしてどうかな?
辿々 とは、、なんて読む。そして意味は?
まず読みは、、、たどたどしい となる。
なんとなく、聞いたことがあるが、どういう意味か?
なんか危うい、不安定としか言いようがないのでは?
辞書的には
物事がスムーズに進まず、ぎこちない様子や、未熟で頼りない様子を表す。
ニュアンスはわかるが、正直使いづらいかな。
幼児にも老人にも使えるので、なんかどう使ってもいいのでは?
になっている。
漢字 辿々 を見ればわかるが
山にシンニョウである。
いくつもの山に踏み入れて不安な状態である。
目的地までが明確ではなく
今、進んでいる方向もあっているかどうか
それが、辿々しいということ。
英語の接頭、接尾辞
漢字のヘンやツクリ
からその文字の構成要素を遡って理解することが重要なのだが
現代の積み込み記憶法では本質をつかめないが
成績優秀なバカが量産されるんだろうな。
形勢、状態、関係などが悪い方向に変わること。
何をもって、悪い方向なのか?
技術進化、社会変革で
馬から自動車に向けての道路交通法の改変がされたとき、
庶民は良いと思っても
御者、馬車販売、馬の調教師にしてもれば
商売あがったりの悪変でしかない。
今の有様を正としているから変わることで
自分の存在が悪くのは、悪変でしかないが
それはみんながそう思うことではない。
絶対、悪はないのだ。
人間は昔から、絶対善、絶対悪にとらわれかねない。
そして、自分が絶対善と思ってやまない。
はじめから、自分は他人と違うから善悪の価値観は合わない。
善悪ではなく、自分が属している社会の今の規律に
合わせられるかどうかだという考え方になるべきなのに
「自分は正しいに決まっているのに、間違った方向に変わっていく」
「こんな法律が間違っている」
と言っているのはバカか。
法律が間違っているなら、その社会を壊すことをしないとならないのに
そんなことをしたら、捕まるじゃないか!
って遵法を口にするところもバカでしかない。
騒ぐのではなく
いかに、現行制度を打破するか、それを虎視眈々と狙うべきでは?
その打破もまた悪変だけどね。
コミュニズムという言葉の日本語訳。
コミュニズムを詳細に言うと
財産を私有ではなく共同体で共有し、
貧富の差をなくすことを目指す思想。
なんか言ってことはまともというか、
ユートピア的な理想国家思想。
でも日本では、共産というマイノリティや批判される。
これは2つあるかな。
ひとつはその活動をしている党員の質が悪い。
文句ばかりで共産の産である、生産性が低い輩ばかりだ。
もう一つは、既得権益者の洗脳だろう。
資本主義という富の支配こそ守るべきものという洗脳が
今に至る。それが正しいように言われているが
本当に正しいなんてわけないのに、、
人間は批判と洗脳で生きていることがよくわかる。
現実を直視なんかできないんだろうな。
互いに歩いて近寄ること。
転じて
条件や主張、意見などを近づけ合うこと。折り合いを付けること。
日本語では、意見の対立をこうやって解決する語族であり
交渉は両方に利があるようにさせることを狙う。
しかし、欧米では
dealという表現により、自分の主張がwin、、勝つことばかり狙っている。
基本こういう交渉だと、
日本的だと相手を立てることになるのだが
それで今、欧米では立ててもらう、
勝たせてもらうことが当たり前になっている。
そろそろ、、、、調子にのるなよ、、
特権のように振る舞う姿勢をどうにかつぶさないと
社会の構造的進化が進まないな。
歩寄をするかどうか、その存在価値をみないとな。
投げ込む。
日本の表現だと自分の意思をします行為は
投げる
という言葉に通じる。
投稿
投票
投げ銭
と自分の意思を相手に伝えることは
投げるというのか、、
なんか、日本語の感覚がわかる。
言葉のキャッチボールという日本人独特の価値観なんだろうな。
ある意味、意思を投げ合うから
相手の会話になっていないのでは?
debateを討論とあたかも投げ合う殺し合いに感じる当て字からして
日本人は自分の意思は相手への押し込む投げるものという認識があるから
debateもうまくならないのでは?
話し合いなどが日本では非生産性な行為になるのは
日本という国民性を感じる。
別に悪いことではなく、だからこそって思っていいかも。
「背中で語れ」って表現もあるのだから。
無理にバカな外国価値観をグローバルとか言って受け入れることよりは。
被告人、被疑者、証人などが、
裁判官や捜査官に対し、ある事実について述べること
法治国家では正しい裁きを行うためには必要なことかもしれない。
それがあるべき法治国家であれば。
今の社会、法治国家って言えるのか?
民意の名のもとに法律を後付けで変えてしまうことが平気なるし
そもそも、技術進化のスピードに、その運用、制度を
為政者がついてこれないため、法制度が間に合わないどころか
足かせになるこの世で。
供述をしたところで
それを理解できない、しようとしない権力側の姿勢に
事実を受け止められることが難しいのでは?
どうもいろいろと限界を感じる今の政治制度。
結局、マキャベリのいう衆愚の末路ではないか今は。
作の構想、プロット。
どうやら、こんな言葉はそもそも辞書にないようで、
漢文の
案其言而思之
の抜粋漢字で作った、、それも今の時代劇ドラマ側の創作語のようだ。
勝手に抜粋漢字で熟語を作り出すなんて、、
って言われるかおもしれないが、現在の元号って
上記のように漢文を原点に
平成、令和って作られているのであながち勝手とは言いづらい。
熟語を新たに創設したうえで
それを市井に広めることで言葉は進化するものかもね。
英語だって、、net って言ったら、網、蜘蛛の巣って言わずに
インターネットとまず思い浮かべるような社会に認識に変わっているのだから
言葉の定義は広がったもの勝ちだね。
小麦粉を代表する麦から製粉したもの。
今、世界中の炭水化物摂取の多くは麦粉だろう。
日本では米だが、今の米騒動では
麦粉への需要は高いのでは。
パン、麺、など幅広い調理、料理があるので。
ちょっと思った、
戦後の日本ではアメリカからの小麦粉を メリケン粉 って呼んでいた。
それで戦後復興を乗り越えた。
今、またメリケン粉の輸入が関税でいろいろと言われる。
いっそ、メリケン粉を前提にしてみたら?
メリケン粉 日本に馴染みのある漢字表記で 米粉 !!???
米粉は米粉があるので、紛らわしい。
でもこれって、なんでも欧米に上書きされるので
仕方ないかなあ、、って思ってしまう。
今、今までの日本であるならね。
まるっきり。
日本語において、呼応の副詞であり、
全然~ない に係るのが正しい日本語。
正しい日本語 VS 言葉は時代とともに変わる
であり、全然OKも使われる、日本語の混沌時代になっている。
そして、思う。
全然~ない の呼応の副詞はすでに機能していないのではない。
「全然違う」
「全然わからない」
などを口にしている輩が使っている真意は
事実認定をしたくない傲慢さの自己主張でしかなく
本来の全然ではなく、その通りを認めないだけの用例になっている。
否定の否定をしていることでより
その人間の醜さを強調している表現になっているだけに
日本語のおかしさを物語っているなあ。
また流れ出す。
再流行などのリバイバル。
時代の流れでリバイバルブームをちょくちょく起きる。
外国ならオールディーズ
日本なら昭和ブーム、、いや古いのは、本歌取りがそれにあたる。
人間の本能的なところで懐かしむってことだろうと言われるが
それはおかしい。
だって、その過去を知らない人がその時代を再流行させることが多い。
神瞰できる僕からすれば
リバイバルブームというのは
その時代がつまらなく停滞していて
新たな価値を生み出せない時でしかない。
過去の価値を利用するなどという
模倣しかできないその発想時代
いろいろな意味で時代の終焉でしかないのだろうな。
それ以降は、根本的な価値観の洗い替えが待っているのだろうな。
ある範囲や規定の外におくこと。取り除くこと。
There is no rule without exceptions
大学受験の英頻の冒頭の例文にもあるものだが
社会統治の観点から除外が発生するということは
法治国家として、機能が複雑かつ統治が揺らいでいるといえる。
除外を作るとういうことは
~なんでそうするか
~どこまでそうするか
~類似しているからこれも除外では
~あれが除外ならこれも同じはずだ
という意見が上がってくる
それらに対処するするだけで
統制活動が機能しなくなるものだ、、
得てして、除外は
為政者の私的な思いで生まれるもの。
為政者として精神的、経済的利権を感じさせるものがあるからだ。
やはり為政は民主主義では無理なんだろうな。
除外と利権が恣意的に生まれるから。
他を考えないで、一つのことに打ち込むこと。
これって、美徳にも悪徳にもなる。
その評価は結果と過程だ。
一途にずっとやっている行為は
「なんでそればかりやっているのか」
「視野を広げろ」
って批判されることばかり。
なぜなら、それまでの時間、コストが無駄に感じるから
しかし、いざ評価、結果を出すと
他人は手のひらを返して
「ずっとやってきて結果だ」
「信じていた甲斐があった」
とかいいだす。
なぜなら、そのおこぼれをもらおうとしているから
人生において、他人の意見って本当に邪魔。
利害関係だけでいいと割り切ることが正解なのに
そこを批判するのは、、人間クズ性がよくわかる。
相場がどんどん下落する中で、あえて買いを入れる、
もしくは相場がどんどん上昇する中で、あえて売り建てる取引
証券用語だったが、今では
あえて社会の流れと逆の行動すること に使ったりする。
逆張りと言われることの多くは成功事例の後付けだ。
もしくはその結果を目指しての自分の行動への言い訳だったりと。
普通は失敗、損をすることが見えているが
そうではないということを狙っている。
基本、失敗することになり、やっぱりとなるが
まれに逆張が当たると、、、、
それを誇張し、そしてそれに続こうとする。
それって、かけ事じゃん!
なんだかんだで、人間はギャンブル嗜好なんだな。
物を買い取る値段や、商品を仕入れたときの値段、
または商売で品を仕入れたときの元値
~ネットによる全国規模の値下げ合戦
~転売による希少品の高価格化
すでに定価の買値が破綻している。
これって、、、、あるべきカタチではないだろうか!
需要と供給が成り立っている自由市場の理想形では?
転売を不当というが
みんなが統一価格で誰でも手に入れられるって
破綻した社会主義の発想ではないか!
そもそも、転売って卸業そのものではないか!
同じことをしているのに、こっちはいいけど、あっちはダメって。
転売での買値統制ではなく
~大量供給体制の早期構築
~欲しい人を見極めて売る販売チャネルの構築
~転売だろうがどうしても買いたい、売りたいのマッチングの正当性
を取引の仕組みで徹底すべきではないか。
欲しいものが思う価格で買えずそれを転売者に八つ当たり
ってある意味、自由主義批判そのもので危険な発想では?