2000年以前であれば、カメラ小僧とか言われる人しか意識しない言葉だったが
2001年写メの登場からスマートフォンへのデジタルカメラ機能により
一般的な概念になってきた。
思うにオタクと言われるプロ志向の技術は
はじめは批判、卑下されるが
それが普及すると今まで批判していた者共がなんか得意げに話し出すことが
普及させたのは自分たち、認めてやった感を感じる。
マジョリティーによる弊害を感じる社会だなあって。
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
集まりやイベントを取りまとめる役割の人
どうも、日本における幹事の地位が低すぎる。
幹事になる以上、それなりの権限や裁量をもらえなければやってられるか
幹事なんだからって
・雑務
・各位の調整
を当たり前のようにさせられる。
ある意味、幹事は罰ゲームになっている。
これって、、今の社会の偉くなりたくないと同じこと。
社会的秩序、決定の意向を
個人に任せている今はもはや社会ではない
偉く成りたがらないではなく
偉くなる意味がないからだ。
社会性を取り戻したいなら
権力の意義と
個人をどんどん不自由にすべきだ。
不自由だからこそ、人間は新しいことを思いつくわけで
自由、放漫な社会に未来はないことになぜ現代人は理解できないのか?!