都市の中心からはずれた所。町はずれ。
この表現はそこを卑下して言っているわけで
同じ意味で
郊外
閑静
という表現を使いそこを表す。
都市をいろいろな生産性、発展、発信の象徴であるが
同時に雑多、騒音、切り捨ての一面も持つ。
場末に軸を動かすということは
社会から距離を置き、自分の好きな生き方をする
意思の表れに使われるようだな。
意思はいいけど、今まで味わった都市の利便性を失うことに
何人が耐えられる??
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
また流れ出す。
再流行などのリバイバル。
時代の流れでリバイバルブームをちょくちょく起きる。
外国ならオールディーズ
日本なら昭和ブーム、、いや古いのは、本歌取りがそれにあたる。
人間の本能的なところで懐かしむってことだろうと言われるが
それはおかしい。
だって、その過去を知らない人がその時代を再流行させることが多い。
神瞰できる僕からすれば
リバイバルブームというのは
その時代がつまらなく停滞していて
新たな価値を生み出せない時でしかない。
過去の価値を利用するなどという
模倣しかできないその発想時代
いろいろな意味で時代の終焉でしかないのだろうな。
それ以降は、根本的な価値観の洗い替えが待っているのだろうな。
ある範囲や規定の外におくこと。取り除くこと。
There is no rule without exceptions
大学受験の英頻の冒頭の例文にもあるものだが
社会統治の観点から除外が発生するということは
法治国家として、機能が複雑かつ統治が揺らいでいるといえる。
除外を作るとういうことは
~なんでそうするか
~どこまでそうするか
~類似しているからこれも除外では
~あれが除外ならこれも同じはずだ
という意見が上がってくる
それらに対処するするだけで
統制活動が機能しなくなるものだ、、
得てして、除外は
為政者の私的な思いで生まれるもの。
為政者として精神的、経済的利権を感じさせるものがあるからだ。
やはり為政は民主主義では無理なんだろうな。
除外と利権が恣意的に生まれるから。